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- 「もはや戦うことを学ばない」
既に気づいている人も多いと思うが、ミカ書 4,1-3 の内容は、イザヤ書 2,2-5と殆ど一字一句、同じである。 ミカは、紀元前8世紀後半に南王国ユダで活躍した預言者で、イザヤとは時代も場所も近いから共通点が多い。ただ、イザヤがエルサレムの上流階級の出身であるのに対してミカは農村地帯の出身だと言われている。このことが、両者の思想や表現にいくらかの違いを与えている。だが、社会の不正を糾弾して主の裁きを預言している点、また、そのような不正な社会に対しても終わりの日における神の救いを約束している点では、本質的に同じである。今日の箇所についても、「ミカがイザヤの言葉を取り入れたのだ」とか、「いや、その逆だ」といった議論があるようだが、二人とも共通の関心を抱いていたので期せずしてこの言葉に注目した、
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- 「神の手による奉仕」
Iイエスは、エルサレムで処刑される直前に、弟子たちと最後の晩餐の時を持ちました。マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、この場面で最も重要なエピソードは、いわゆる「主の晩餐」です。イエスが、パンと葡萄酒を「これは私自身だ」と言いながら弟子たちに分け与えるのです。しかし本日のテキストであるヨハネ福音書13章には、最後の晩餐そのものについては「夕食のときであった」(2節)という最小限の言及しかありません。そして、「主の晩餐」にいわば代わるかたちで、〈イエスが弟子たちの足を洗った〉という事件が報告されます。「イエスの洗足」エピソードは、ヨハネ福音書に固有なものです。つまりヨハネ福音書では、主の晩餐に匹敵する重要な位置に、イエスの洗足が現れるのです。IIさて洗足物語は、次のような言葉で始まります。「過
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- 「約束の声」
I人生はしばしば〈旅〉になぞらえられます。そして旅には予測のつかない困難や不安がつきものです。旅立つ人に向かって、私たちはしばしば「頑張ってね」と言います。本人も「頑張ります」と返します。頑張るとは、困ったときは自分で自分を助ける努力をするということでしょう。諺にも〈神は自ら助くる者を助く〉と言います。自助努力をしない人を神は助けたりしない、という意味です。しかし「神が助ける」とは、今の時代には〈運が良ければ何とかなる〉という程度の意味しかありません。ですから実際にはこの諺は、〈危機を脱出したければ、自分で頑張りなさい〉というほどの意味に用いられます。 もちろん私たちは皆、それなりに頑張ります。しかし頑張ってもどうしようもないことがあるのも事実です。いかんともしがたい事情に迫られて、是非とも
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- 「人間よりも神に従う」
旅から帰ってくると、私のパソコンには沢山のメールが入っていた。その中に、今、町田で「兵役代替業務」に就いているドイツの青年たちを、「9月中のいつか、土曜の夜の青年会に招くことができるかもしれない、それを何日にするか」というやり取りがあった。実現できたら素晴らしいと思う。 幸いにも今の日本にはないことなので、若い人には分かり難いかもしれないが、ドイツには二年間の「兵役義務」がある。西ドイツは、朝鮮戦争直後の1954年に再軍備を決定したが、これを巡っては国論を二分するような議論があった。遂にそれが決まったのには、南北朝鮮と同じ分断国家としての危機感が大きく影響したといわれる。ただその際、旧ドイツ軍がヒトラーの言うなりになったことへの反省から、軍の在り方について徹底した議論が行われた。そして、漸
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- 「隠れたことを見ておられる神」
先週、私は、兵役拒否をして町田で「代替業務」に就いているドイツの青年たちのことを少し話した。ドイツでは、信仰上・思想上の理由によって「兵役を拒否する権利」が認められているということなどである。実は、アメリカなどいくつかの国にもこの制度がある。この点について少し補足した後、今日のテキストに向かいたい。 一般的に言えば社会に「法律」は必要だし、国民は原則的にはそれには従わねばならない。しかし時には、「神の意志」に従うためには、あるいは「思想上の節操」のゆえに、「どうしてもこの法律には従えない」という決断をせざるを得ない場合がある。そのような自由が我々にはある、ということである。法は人間が作ったもので、その権威は絶対的なものではない。その上にある権威(神の権威・良心の命令)というものが存在すると
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- 「主がこの場所におられるのに」
ニューヨークで起こった「同時多発テロ事件」に、私は打ちのめされた。私は今、皆さんと同じように暗く、重苦しい心を抱いてここに立っている。先ず、この恐ろしい事件に巻き込まれて絶望的な苦しみを味わいながら死んでいった多くの人々のために、またその家族のために、神の憐れみを祈らずにはおられない。 しかし、あの日以来、青年会の人たちがメール上で活発な意見の交換をしていることで、私は深く慰められた。誰もがこの事件の犠牲者を思って心を痛めながら、我々の世界の将来をどうすべきかについて真摯な考えを、しかも冷静に展開しており、私はこの人たちのことを誇りに思う。 そのような時に、創世記のヤコブの話をする巡り合わせになったのだが、一見無関係のように見えるこの話には、現代に生きる我々にとっても何か深い意味があるか
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- 「謙虚さについて」
一昨日のブッシュ大統領の議会演説があった今、我々は、「いよいよ報復戦争は避け難くなった」と感じている。そのような緊迫感の中で、我々は予定されていた「葉山カンファレンス」を行い、「アジアを考える」という主題で共に考え、祈る。恐らくこの主題は、現在の危機的な状況とまんざら無関係ではないであろう。 葉山では一緒に讃美歌をたくさん歌ったり、ゲームをしたりという楽しい交わりもあるし、祈りを深める時間もあるが、主題との関連では、先ず何人かの参加者が自らの「アジア体験」を語ることになっている。単に「体験談を聞く」だけで終わらせないために、皆でさらに語り合う中から将来への指針を見出し、特に「アジアにおいてキリスト教はいかなる役割を果たすことができるか」という方向に話題を深めて行けるように願っている。これら
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- 「何の権威によって」
福音書にはイエスが語られた言葉を,そのままではないにしても大変良く留めている個所があります。専門用語ではこれを,信憑性(authenticity)の高いぺリコーぺと読んでいます。今日のテキストはそうした信憑性の高い部類に入ります。概して論争物語と呼ばれているテキストや、譬話などが、後代の解釈や編集の手が加えられていながらも、誕生物語や復活物語などの伝説風の物語よりは遙に信憑性が高い記述であると見なされています。本日、共に学ぼうとしている「権威についてのイエスとユダヤ人指導者との論争物語」はイエスの姿と働き、また言葉が生き生きとそのまま現代の私達に伝わってくるのを感じないでしょうか。マルコ記者もこの物語に深く感動して,今も生きているということを読者に伝えるために、現在形で書き記しています。そ
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- 「私はこの地で宿り人です」
キリスト教の信仰を持つとは、ナザレのイエスに行動の指針を求めるだけでなく、人生のすべてをかけてイエスに従うことを意味します。私たちがこのような信仰を持つに至るについては、その信仰を私たちは何世紀にも亘る信仰の証人たちに負っています。ディートリヒ・ボンヘッファーは、そのような証人の一人になりました。彼の証言は、私たち自らの生の歩み、信仰の歩みに、一つの刺激をあたえるものだと思います。聖書のある特別な言葉として、私は詩編119編の一節を選びました。他でもないこの詩編が、ボンヘッファーにとってとりわけ重要なものであったからです。ここでは、私たちは地上では「宿り人」に過ぎないと言われています。私たちは地上では「よそ者」である、と翻訳することも可能です。ですから同じ言葉に二つの意味が、つまり客人として
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- 「神の国と正義」
Iこの一ヶ月間ほど、いわゆるグローバリゼーションの陰の部分をはっきりと見せつけられたことは、かつてなかったと言ってよいでしょう。グローバリゼーションは人や物、そして情報を高速かつ大量に輸送することを可能にするシステムに依拠しています。航空機を用いたテロ、世界的規模の食品産業のネットワークを通して日本にも入ってくる異常プリオン、あるいは生物兵器やサイバーテロといった危険が、私たちの身の周りで、突然に現実的になりました。いわゆるグローバリゼーションは、それが単に貧富の差の拡大に終わらないためには、本来、世界全体の経済格差の是正や福祉の推進、そしてとりわけ軍縮や安全保障などの歩みと並行して進行すべきでしょう。ところが現状はどうか。アメリカとイギリスによって行なわれているアフガン空爆が、暴力と報復の
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- 「律法からの解放」
「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった」(2)とある。この池のことは、考古学的にある程度確かめられている。1878年から1931年にかけて行われた発掘調査によって神殿の北約100メートルの地点に発見されたのがこの池ではないだろうかというのである。まさか捏造ではあるまいと思うが、池は長方形で、高い方と低い方の二つに分かれており、池の四方を囲む四つの回廊と、二つの池の間を横切るもう一つの回廊の遺構が発見された。つまり、五つの回廊に当たる。 イエスがこの池に行かれた時、「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(4)。恐らく水には薬効があり、「間欠泉」のように一定の間隔を置い
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- 「文字ではなく霊に仕える」
もともとパウロは、いわば「ユダヤ教原理主義者」としてキリスト教会を迫害することに熱中していた人物である。その後、突然回心してキリスト者となり、やがて教会の中で指導力を発揮するようになったが、その前歴から使徒としての資格を疑う者たちも中にはいて、その度につらい思いをしながら弁明しなければならなかった。今日の箇所もその一例である。 3章の初めのところで彼は、自分の使徒としての資格を疑う人がいるかもしれないが、それは「神から与えられたもの」(5)だと言い、それは「新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格」(6)だと説明している。この内、先ず「文字ではなく霊に仕える」という言葉から取り上げることにしたい。 「文字」というのは、直ぐ後の段落ではやや詳しく「石に刻まれた文字」(7)と言い直
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- 「気を落とさずに祈る」
今日は、「召天者記念礼拝」。名簿には、多くの懐かしい信仰の先達たちや、まだ我々の記憶に新しい方々の名が記され、前の方には写真も飾られている。ご遺族と共にこの礼拝を守れることを心から感謝したい。また、正規の会員でないために名簿に載っていない方々とご遺族のことも併せて覚える。心から神の慰めと恵みを祈りたい。 さて、「召天者を記念する」とは、どういうことだろうか。 日本ではよく「冥福を祈る」というが、これは、キリスト教の言葉に直せば、「死者たちを記念し、その方々が主と共にあることを信じ、祝福を祈る」ということだろう。だが、我々が「記念する」という場合、単にそれだけにとどまらない。それは、「その人々の志や祈りを残された我々が受け継ぐ」ということをも意味する。 召された方々には、「この世で真剣に
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- 「互いに愛し合いなさい」
イエスは、今日の箇所に先立って、「父(=神)がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(9)と命じられた。 このイエスの言葉を、単に「厳しい道徳的命令」として聞くならば、「本当に愛することは中々難しい」という月並みな結論で終わってしまうかもしれない。しかしイエスは、そのような実行困難な「道徳的命令」を与えたのではない。彼はむしろ、すべての根底には神の愛があると言おうとしているのだ。「わたしの愛にとどまりなさい」という命令の真の意味は、そこにある。このことについて述べたい。 彼は、一切のものの根底に神の愛があると信じていた。 例えば、「空の鳥を見よ」、「野の花を見よ」 (マタイ6,25以下) と言う。この世界の最も小さな存在に優しい眼差しを向け
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- 「地上の幕屋・天の住みか」
「教会暦」は一年の終わりに近づいている。12月2日が「待降節(アドヴェント)第一主日」でその週から新しい年の歩みが始まるが、その直前の今の季節には、古来、「終わり」や我々自身の「死」について考えるのがキリスト教の伝統であった。先週「召天者記念礼拝」を守ったのもそのためだし、今日は「終末前主日」、来週は「終末主日」と名づけられ、聖書テキストもこれとの関連で選ばれる。 さて、今日の箇所には「地上の幕屋」という言葉が繰り返し出てくる。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても」(1)とか、「わたしたちは…この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」(2)とか、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいている」(4)とか、「地上の住みかを脱ぎ捨てたい」(4)とか。 この場合、「地上の幕
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- 「目を覚ましていなさい」
教会暦によると、来週からは「待降節」で新しい年の歩みがが始まる。従って、今日が一年の最後の日曜日、「終末主日」である。古来、この日には「終末」に関する聖書の箇所が選ばれるので、今日は マルコ福音書 13章について話したい。32-37節 だけを朗読したが、13章全体を見渡しながら話しを進めたいと思う。 この章は「小黙示録」と呼ばれ、イエスは正に「終末」について語っている。 この時代の人々は、イエスも含めて、後期ユダヤ教の「黙示文学」の考え方に拠って物事を見ていたと言われる。 「黙示文学」とはどういうものか。「歴史は繰り返す」のではなく、始まりと終わりがあり、一度始まった時間は「一回限りの時」として繰り返しはきかず、終わりに向かって直線的に進んでいく、という時間論が根底にある。その上で、終
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- 「真実な方の約束」
今日から「待降節」(アドヴェント)が始まる。礼拝が始まるとき、我々は讃美歌242番の1節を歌った。「主を待ち望むアドヴェント最初のろーそくともそう。主が道をそなえられたこの時を守ろう。主の民よ、喜べ。主は近い」。 この歌を歌う中で、教会学校の生徒たちが蝋燭の一本に灯を点してくれた。蝋燭の灯は毎週一本づつ増えて行って、23日のクリスマス礼拝のときは、四本全部に灯る。このようにして、我々は主イエスが来られるのを待つのである。静かな喜びが我々の心を満たすのが感じられる。 「アドヴェント」とは、元々「近づく」・「到着する」を意味するラテン語の advenio から来た言葉である。それが、特にクリスマス前の四週間を指すようになった。「主を待ち望むアドヴェント…主の民よ、喜べ。主は近い」というわけで
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- 「開かれた門」
私が使っている牧師用のカレンダーによって、今日(待降節第二主日)の説教テキストとして、ヨハネ黙示録 3,7-13を選んだ。来週も続いて黙示録3,1-6を取り上げる。「待降節なのにどうして黙示録か」と不思議に思う方もいるかもしれないが、この選択には意味があると私は思っている。理由は二つある。 先ず、11節に「わたしは、すぐに来る」とあるように、この問題の多い世界の歴史の中に「主が再び来たり給う」というのが「ヨハネ黙示録」の信仰の中心である。「来たり給う主を待つ」というのは正に待降節の主題であるから、黙示録を読むことは待降節に相応しい。これが第一の理由である。 第二の理由は、「ヨハネ黙示録」が皇帝ドミティアーヌスの治世下(81‐96年)に書かれた「抵抗の文書」である、ということと関係がある。
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- 「勝利を得る者」
サルディスは、小アジア(現・トルコ)西部、エフェソから北東へ約100kmの所にある町である。紀元前7世紀頃にはリュデイア王国の都として経済的にも栄え、密儀宗教の壮麗な神殿などもあったという。標高400mほどの岩山の上に難攻不落を誇る城郭があったが、紀元前218年に外敵が岩の裂け目をよじ登って奇襲攻撃をかけ、これによって落城したと伝えられる。その後、紀元17年に大地震があって町は壊滅し、衰微して、『ヨハネ黙示録』が書かれた頃は一寒村であったらしい。 さて、この寂れた町にも教会があった。その教会が当時どういう状況にあったか、詳しいことは何一つ分からないが、ヨハネはこの教会に対して、「神の七つの霊と七つの星を持っている方」(=イエス)の言葉として、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生き
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- 「平和を告げる」
「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(7)。 実際は、「良い知らせを伝える者」は「山々を行き巡」って来たわけだから汗臭く、その足はお世辞にも「美しい」とは言えなかっただろう。サンダルのようなものしか履いていないから、埃にまみれてドロドロに汚れ、恐らく悪臭を放っていたであろう。その汚れた足が、この上なく美しく見えたという。待ちに待った吉報をもたらしてくれたからだ。経験のある人には、このことが良く分かる筈である。 敗戦の時、職業軍人であった私の父は南京で抑留されていた。母は、姉・妹・弟を守って満州に残った。独りで日本に残っていた私は、全く情報を得られないままに、半ば諦めて津軽の母の実家で厄介になっていたのだが、ほぼ一年経った時、母ときょうだいは私のもとに帰って来

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
