「律法からの解放」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった」(2)とある。この池のことは、考古学的にある程度確かめられている。1878年から1931年にかけて行われた発掘調査によって神殿の北約100メートルの地点に発見されたのがこの池ではないだろうかというのである。まさか捏造ではあるまいと思うが、池は長方形で、高い方と低い方の二つに分かれており、池の四方を囲む四つの回廊と、二つの池の間を横切るもう一つの回廊の遺構が発見された。つまり、五つの回廊に当たる。

イエスがこの池に行かれた時、「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(4)。恐らく水には薬効があり、「間欠泉」のように一定の間隔を置いて水が噴き出していたのであろう。「水が動く時」(7)というのはそのことらしい。新たな成分が噴き出して来ることを体験的に知っていた病人たちは、その瞬間を狙って池に降りて行ったのだろう。

大勢の病人たちの中に「38年も病気で苦しんでいる人」(5)が横になっていた。38年! 私のこれまでの人生の、半分以上の長さである。物心ついてからの38年と考えると、これはこの人の全生涯と言っていいであろう。健康で、忙しく仕事に追われている人にとっては「あっという間に」過ぎる年月かもしれないが、ただ忍耐する他ない病人にとっては、耐え難く長い時間である。

イエスは、大勢の中からこの人を見つける。彼は、この点で鋭敏な感性の持ち主であった。大勢の中に紛れていても、誰が今苦しんでいるか、誰がそのような状況の中で絶望しかかっているか、今助けを必要としているのは誰か、イエスにはすぐに分かった。「もう長い間病気であるのを知って」(6)というのは、そういう意味だろう。

彼は病人のすぐ傍に寄り、「良くなりたいか」(6)と聞いた。愚問のようだが、そうではない。言葉をかけた、しかも、問いの形で言葉をかけたということは、この病人に通り一遍でない関心を持ったということであり、この病人にとっては、これこそ何よりも必要なことであった。誰からも無視されたままで長い年月を過ごすということは、人を絶望させる。

イエスに言葉をかけられた病人は、果たして堰を切ったという感じで話し始めた。要するに、胸の奥に溜まっていた愚痴を吐き出したのである。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7)。

病気が苦しいことももちろんだが、それ以上に、周囲の病人たちをも支配している競争意識が彼を滅入らせる。「同病相憐れむ」というが、ここではこれが通用しない、病人同士が「われ先に」という意識に取りつかれて、誰一人この自分を助けてくれる者はいない、情けない――これが彼の愚痴の内容であった。

これは今日の日本でもよく聞かれる嘆きである。他者に対する無関心。互助精神の欠如。これらの嘆きの声をちゃんと聞き分けて対策を講じることは、「福祉社会」を標榜する政治や行政の責任であるが、それだけではない。問題の根はもっと深い。

その深い根を、イエスはこの病人のすぐ傍で見抜いたのではないだろうか。そして今、その人にとって最も必要な言葉をかける。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8)。我々はこの言葉を、「互助システムよりも自助努力だ」というような責任回避の講釈として理解してはならない。

むしろイエスは、この病人がこれまで聞いたことのない「福音」を語ったのだ。「あなたは人生を殆ど投げているが、絶望する必要はない。私があなたと共にいる。私があなたを立ち上がらせる。起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。しばしば絶望的に見えるこの世界の根底に、「神が共にいます」(インマヌエル)という現実がある。しかもこの「福音」は、ただの軽い言葉ではない。それを語ったイエスの生命が賭けられた、人生の最も深い現実なのである。

当時、十戒の「第四戒」によって、人は安息日には、すべての日常の業を休まなければならなかった。イエスの時代になるとこの戒めは数百にも及ぶ実に煩瑣な規定となって、人々の生活を縛っていた。「床を担ぐことは、律法で許されていなかった」(10)というのも、その一つである。従って、「床を担いで歩きなさい」と命じたイエスも、この安息日律法に違反したことになる。「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(16)とあるのは、そのためだ。

だがイエスは、敢えて律法違反を犯しても、この病人を助けようとした。この驚くべき自由は、福音に生きた人にだけ見られる特徴である。福音に生きた人は律法をも越える。福音は律法よりも上にある。それ故に彼は、律法から自由だったのだ。

 最近、「原理主義」という言葉がよく聞かれる。元々、ある教理や戒めを絶対化する偏狭なキリスト教の立場を示す用語が"fundamentalism"で、これの訳語が「原理主義」だった。「イスラム原理主義」に限らない。「殺すな」という戒めを厳格に妊娠中絶に当てはめようとした熱心なクリスチャンが、この手術をしていた医者の家に爆弾を投げ込んで皆殺しにした例は、原理主義的な倒錯といえよう。

 「律法」や「戒律」は、この社会には必要である。それがないと秩序は保てない。だが、律法にはいつの間にかその本来の精神から離れて、条文だけが絶対化される傾向がある。だが、主イエスは、何よりも神のこの世への愛(3,16)に注目したが故に、律法から解放されていたのである。


 
 

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