もともとパウロは、いわば「ユダヤ教原理主義者」としてキリスト教会を迫害することに熱中していた人物である。その後、突然回心してキリスト者となり、やがて教会の中で指導力を発揮するようになったが、その前歴から使徒としての資格を疑う者たちも中にはいて、その度につらい思いをしながら弁明しなければならなかった。今日の箇所もその一例である。
3章の初めのところで彼は、自分の使徒としての資格を疑う人がいるかもしれないが、それは「神から与えられたもの」(5)だと言い、それは「新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格」(6)だと説明している。この内、先ず「文字ではなく霊に仕える」という言葉から取り上げることにしたい。
「文字」というのは、直ぐ後の段落ではやや詳しく「石に刻まれた文字」(7)と言い直されている。これは明らかに「十戒」のことだ。先程朗読した出エジプト記にも、「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった」(34,29)とあるが、「十戒」は二枚の石の板に刻まれていたのである。
この「十戒」は、イスラエル民族にとって最も重要な生活原理であった。彼らが拠り所とした旧約聖書は、「十戒」を柱とする律法と、その律法の精神を深く明らかにした預言書と、それを文学的に表現した文学作品という三つの部分から成っており、パウロはエルサレムの律法学校でこれらを徹底的に教え込まれたエリートである。
そのパウロが、律法に仕えることは「死に仕える」(7)ことだとか、律法には「罪に定める務め」(9)があると言って否定するようなことを言っている。何故だろうか。
本来、律法の中には人間とその世界に対する「神の愛が充満している」(ラピーデ)。それは、すべての人間が共に・平和に生きて行くために、神から与えられた善いものだからだ。だからこそ、我々はそれを真剣に守ろうとするのである。
だが、悲しいことに人間には、真剣になればなるほど、本来善いものである律法を「杓子定規な原理」にしてしまう傾向がある。その結果、それは命の通わない単なる「文字」になり下がる。命の通わない文字になってしまった律法は、人の罪を抉り出して断罪するだけのものとなでる。「文字は殺す」(8)のである。これは、パウロの、そして宗教改革者ルターの体験でもあった。ガラテヤ1,13に「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」とあるのは、そのことだ。
最近、「イスラム原理主義」という言葉をよく聞くが、原理主義的な逸脱はなにもイスラムに限ったことではない。ユダヤ教にもあるし、キリスト教にもある。人間社会の至る所に現われる。それは自分の立場を絶対化することであり、「罪」とはこのことに他ならない。パウロもまた、その罪に陥ったのであった。
だが、彼はダマスコへの途上で、「何故わたしを迫害するのか」(使徒言行録 9,5)というイエスの声を聞いた。イエスはこの時既に死んでいたから、これはイエスの肉声ではない。「人類の中に集積された記憶」と言ってもいいであろう。それがパウロに語りかけて来たのである。「何故わたしを迫害するのか」。
この場合、「わたし」というのは単なる代名詞ではない。「互いに愛し合いなさいと教えたわたし」ということであり、「そのために命を捨てたわたし」ということである。つまり、「わたし」とは、愛こそが一切を超越する最高の価値であることを身をもって示したイエスのことである。そのイエスを、何故十字架にかけて抹殺するのか。人と人とが愛し合って共に生きるという、人間本来の在り方を、人類は何故これ程までに繰り返しぶち壊すのか。何故これ程際限もなく、憎しみと復讐の悪循環を繰り返すのか。「何故わたしを迫害するのか」。
このイエスの問いかけを、すべての人は今こそ真剣に聞かなければならない。それを聞いて心を砕かれるとき、そして絶望の底からイエスに現われた神の愛を仰ぐとき、人は変えられる。人を殺す原理ではなく、「新しい契約」(6)、つまり、人を生かす福音に仕えるように変えられる。パウロもルターも変えられた。人類も変えられる。
この希望を我々の世界にもたらすこと。これこそ、我々の光栄ある務めなのである。パウロは、モーセが「十戒」の石の板を持って山から下りて来たとき、「彼の顔の肌は光を放っていた」(出エジプト記 34,30) という不思議な出来事に関連させて、「人を罪に定める務め(=律法)が栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務め(=福音)は、なおさら、栄光に満ちあふれています」(9)と言う。
しかし、13節以下でパウロは、「モーセが…自分の顔に覆いを掛けた」(出エジプト記 34,33)という故事を取り上げ、独自な解釈に基づいて、全く別の話にしてしまう。「今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(15)、というのである。この解釈は強引だが、言っていることに私は反対ではない。
「モーセの書」とは、「古い契約」(14)と同じく、旧約聖書のことである。自分もかつてそうだったが、ユダヤ人は旧約聖書を読むとき、その本当の意味を覆い隠している、とパウロは言うのだ。報復を正当化し、戦争を美化する。だがイエスは、旧約聖書全体の中で最も重要な掟は「神を愛しなさい」であり、第二は「隣人を自分のように愛しなさい」であると言って、この愛の掟にこそ、「律法全体と預言者は基づいている」(マタイ 22,34-40)と教えた。このイエスの言葉のほうに向き直るとき、覆いは取り去られ、「霊」、つまり命に仕えることが出来るように解放されるであろう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.