わたしたちは証人です

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「わたしたちは証人です」

秋葉正二
イザヤ書61,1;

 テキストは「コルネリウス物語」と呼ばれる使徒言行録の中で最も長い物語の一部です。  コルネリウスはイタリア隊の百人隊長ですが、ペトロを異邦人伝道の第一人者にしてゆく重要な人物です。  テキストはコルネリウスの家に招かれたペトロが福音を告げる場面で、これは異邦人に対するペトロの最初の説教です。

 43節までのこの説教を読んでいると、キリスト教の教えの内容が順序良く整理されて述べられ、キリスト教信仰のエッセンスの説明を受けているような感覚に捉われます。  『あなたがたはご存知でしょう』と呼びかけられれば、思わず 「はい」 と答えてしまいそうです。  聖書学者によればこの部分にはヘレニズム的宗教の用語法が見られるとのことなので、これはもうペテロが語ったそのままのギリシャ語ではなく、ギリシャ人ルカのヘレニズム的教養に裏付けられた筆によると見てよさそうです。

 37節の洗礼者ヨハネの活動から始まって、38節ではイエスさまのガリラヤ伝道の様子に触れています。  各地を巡回して歩きながら、悪魔に苦しめられている人たちを癒された、とあります。  人間の肉体の病から精神の病までが癒しの対象だったことでしょう。  この働きは、神さまの聖霊と力に裏付けられていたことが記されています。  続く39節では、 『わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です』 という言葉があります。  これは使徒言行録の他の箇所にも見られるように、イエスさまの活動内容全体を総括するような表現で、ペトロが直弟子である12人のリーダーであったことが強く意識されていると思われます。

 ルカがその筆の力で、ペテロの活動の様子を生き生きと表現してくれたことは、後のペトロ像構築に大きな役割を果たしているはずです。  実際ペトロの活動の現場には、アラム語を話す彼の話をギリシャ語に上手に訳すことのできるブレーンがいた可能性も十分あることを考えてもよいでしょう。  同じ異邦人伝道の立役者とは言っても、このコイネーと呼ばれる当時の世界共通語であるギリシャ語の表現能力については、ペトロがパウロと決定的に異なっている点でしょう。

 もちろん言語能力だけが宣教力のバロメーターでないことは言うまでもありません。  結果的にローマに残された絶大な伝説はペトロに関するものですから、彼の宣教力が並外れて優れていたことは確かでしょう。  続く40節41節は、いわばルカの宣教論的キリスト論です。  40節の 『神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました』 という表現などは、極めてルカ的と言えます。  42節には『イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者である』という信仰思想が表現されています。

 ここにはイエスさまがこの世の審判者として定められているとして、それがキリスト教の救済史における神さまの計画であることがはっきり示されています。  43節もキリスト教思想にとっては重要なことが言い表されています。  それは、『預言者も皆』という言葉と、『この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる』 という言葉です。  「だれでも」とはっきり述べていますから、ここではユダヤ人伝道の限界が明確に乗り越えられ、世界宣教の方向性がきちんと打ち出されています。   ヘブライズムやヘレニズムやローマ文化を超えていく新しい波が脈打っている、とみてよいでしょう。

 要するにここまでのペトロの説教とも言うべき言説を一言でまとめると、イエスさまが真の神の器であり、使徒たちはその証人だということです。  そしてそれは神さまのこの世を救う計画であると、ペトロの口を通してルカは述べるのです。  ギリシャ人であるルカの目には、イエス・キリストの救いの対象がユダヤ人の枠を超えて、普遍的なものであることがはっきり映っていたと言えます。

 そのことを具体的に証明するように、44節以下には、異邦人が聖霊を受けた記事が記されています。  ペトロがなおも話し続けている最中に、それを聞いていた人々に聖霊が降りました。  割礼を受けているユダヤ人信者たちは、異邦人に聖霊が降ったのを目の当たりにして、驚いています。  44-45節です。  それまではどうしてもユダヤ人だけが、神さまから愛されているという思想を捨てきれないでいたのでしょう。  ここぞとばかりにペトロは言います。  聖霊を受けたからには、異邦人だからと言って、キリスト者になれないはずはない、とキリストの名によって水で洗礼(バプテスマ)を授けています。

 46節から48節にかけて、聖霊と水との関係が示されています。  聖霊のバプテスマを受けて初めて、人は神とキリストを信じることができるようになるのです。  その決心のしるしとして、水のバプテスマがあります。  教団の教会ではほとんどが滴礼になっていますが、バプテスト系の教会ではその決心のしるしを重んじて、全浸礼を行っています。  私はバプテストの教会で受洗しましたので、寒中の1月3日、凍るような水で全浸礼でした。  高校時代という若い時であったこともあり、不思議に寒さは感じなかった記憶があります。

 さて、先ほども読みました43節の 『この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる』 という一言は、時の流れを超えて、現代まで伝えられてきたキリスト教の人間を生かし、また用いる究極的な真理です。  この救いの言葉を私たちは現代的に人々に伝える責任を負っています。  私たちは「自分が救われてすべてよし」では済まされません。  願わくは、紀元1世紀のローマ世界に力をもって沸き起こった福音伝達力を、紀元21世紀にも再現したいものです。  私たちはこの世を愛される神さまの導きの中で、そのために働く一人ひとりです。

 さて結びに、ペトロとコルネリウスの出会いの理由について少し考えてみたいと思います。  テキストの少し前28-29節に、ペトロはユダヤ人と外国人は交際を禁じられていたけれども、神はどんな人をも清くないとか汚れているとか、言ってはならないと示されたので、コルネリウスの使者が来た時ためらわずにすぐ来た、と記されています。  つまりペトロがコルネリウスのもとへ来たのは神の導きがあったからだと、彼は確信していたわけです。  そのように行動できる伝道者とは、どこへ出てもははばかることなく、神の真理を語ることができるということなのです。

 私たちもどこかの集会で話す時、神さまによって自分は導かれているのだという確信がある時には、信仰の本質を大胆に証言することができます。  そうでない時は、どこか自信なさそうに、弱々しく語っているのでしょう。  ペトロとコルネリウスの出会いには、神さまによって確固として敷かれたレールがすでにあったと言えます。  私たちは信仰告白とは何かといろいろ議論しますが、その本物とも言うべきお手本をこのテキストのペトロの発言に見出すことができると思うのです。

 ペトロは42節でこう語っています。  『イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました』。  それはペトロが自覚していた使徒としての使命感にほかなりません。  キリスト者の使命とは、このペトロの自覚を自分の使命とすることができるか否かでしょう。  しかしキリスト教2千年の歴史が示すことは、聖書が示すこのことを忘れてしまう人がキリスト教界にもしばしば現れるということです。

 キリスト教とは何か? と暗中模索している人がいるとすれば、それは聖書そのものを信頼していないということでしょう。  聖書が示す内容を信じない会議や集会からは、争いやセクトはいくらでも生まれても、神の真理は生まれないのです。   このことをしっかり胸に刻んで教会生活も送れれば、と願っています。  そのためには聖書をしっかり読み、よく祈るしかないのです。  教会の活動はいろいろありますが、すべてはそこにつながっています。  斜めに構えて横を向かずに、皆さん祈り会でも教会学校でも、ガリラヤ会や壮年会でも9条の会でも、積極的に顔を出してみてください。  必ずや得られるものがあるはずです。  2017年も聖霊を豊かに頂いて、元気よく過ごして参りましょう。  祈ります。 


 
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