被爆60年 キリスト者として 長崎の「痛み」を学び、世界へ

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

友納靖史
日本バプテスト連盟 長崎バプテスト教会牧師

 「終戦六十年」。広島・長崎では「原爆投下六十年」。そして心に刻むべきこと、それは「アジアの国々が日本から解放されて六十年」である。人類史上最悪の犠牲者を出した悲惨な戦争を通して、「二度と戦争をしない」と誓ったにもかかわらず、今日本の政治家の教科書問題や靖国参拝などとの関わりは、今なお日本が隣国に与えた「痛み」を理解していないことが根源的な原因であるように思える。過ちを繰り返さないためには、他の人の「痛み」を理解することがまず大切であると思えてならない。

四つの痛み

 この町にある教会に赴任して七年。街角に今なお残る多くのキリシタン迫害と殉教の歴史を学ぶとともに、被爆の爪痕と街の人々の身体と心に今なお深く残った原爆の傷跡の大きさを知ると、私のような戦争も原爆も知らない世代にはとうてい知り尽くすことはできないし、このテーマを語ることさえ、はばかられる。

 それでもあえて、被爆者の方がどのような痛みを体験したかをここで語らせて頂きたい。

 一九四五年八月九日午前十一時二分。七万四千人以上の命が奪われ、生き残った七万人あまりの人々はケロイドと原爆後遺症などの「身体的な痛み」を負い続けてきたことは周知の事実である。

 惨状を目の当たりにした人々が受けた心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの「精神的痛み」と障害は、六十年を経た今もなお残り、当時の臭気や惨状を忘れることができず悪夢にうなされるなど、人々の心の傷は大きい。さらに「社会的痛み」として、被爆者であることへの偏見と差別を受け続けた人々もいる。戦後、長崎出身であると知られると、原爆後遺症などを恐れられ、結婚・就職などにも影響するため、被爆者であることをひた隠し、当然給付されるべき原爆手帳を申請できなかった方々の痛みの大きさを知らされ愕然とした。

 そして最も理解されなかった痛み……それが「霊的な痛み」である。「亡くなった人々は死後どこへ行ったのか」「なぜ自分だけが生き残ったのか」「神はいるのか」との痛みもさることながら、特に長崎ではキリシタン迫害に耐え抜いたカトリックの信徒たちが受けた霊的な痛みは大きかった。

「浦上に落ちた…」

 『長崎の鐘』の筆者で、医学博士として有名な永井隆博士は、熱心な浦上カトリック教会の信徒である。自身も被爆し、最愛の妻を失い、多くの痛みを覚えつつも献身的な救援活動に従事したことで有名である。彼が追い討ちをかけるように覚えた痛み、それは地元でひそかにささやかれた、「原爆は長崎に落ちたのではない、浦上に落ちた」という言葉であった。

 原爆投下によって爆心地周辺に住んでいた浦上の信徒一万二千人中八千五百名が召されたことに対して、地元の心ない人々から「キリシタンが多い浦上に原爆が落ちて、長崎の神社仏閣は多く残った……。だからキリシタンは……」という戦後の迫害を受けたのだ。

 永井隆博士が、生き残った者たちの傷と苦痛を医師として治療するだけではなく、キリスト者として自ら覚えたこの痛みから語ったのが「浦上燔祭説」である。「この戦争を終結させるために、浦上教会の信徒を含め多くの人々が燔祭(焼き尽くす献げもの)として犠牲となったのであって、決して無意味な死ではなかった……」と。

 その後、「怒りの広島・祈りの長崎」と語られたことも、実は永井博士のように、長崎の原爆をこのように意味づけ、怒りと悲しみの感情を昇華し、苦しみから立ち上がろうとする姿勢への批判であったらしい。この永井隆博士の考え方に対して賛否両論がある。しかし、私たち今に生きる者が、心に刻まねばならないこと、それは、強制労働のため連行された長崎で被爆した韓国や朝鮮の方々が、外国在住であるがゆえに長い間無視されてきた痛みがあったという事実。そして、こんなにも多くの「痛み」を被爆者の方々が体験したことを覚え、二度とこの世界で繰り返してはならないということではないだろうか。そのためにも、ぜひ、世界から多くの方がこの地を訪ね、今なお残る被爆の傷跡に触れ、多くの「痛み」を追体験してほしい。

平和の光が

 戦後、長い間、多くの被爆者がその体験を語ることを躊躇しておられた。言葉にすることにより、当時のことを思い起こし痛みが増すからであった。しかし今多くの方が、「私が受けた同じ苦痛を他の人々が受けることがないように……」とご自分の痛みをのりこえ、語りべとなってくださっている。戦争を知らない私たちでも、そのような方々と出会い、わずかながら共苦することを許されている。被爆者ご自身の多くの痛みをのりこえて証しされる愛のわざが、かつての原爆の閃光ではなく、平和の光がこの地に輝くことを信じたい。

 人類すべての愚かな罪と痛みを担うため、キリストは十字架の上で苦しみ、死にて葬られ、復活の勝利を示された。キリストにある希望と慰めにこそ、真の痛みを取り除く力があると知るキリスト者が、この六十年という節目にあって、天にも地にも与えられるべき「真の平和(平安)」を造りだすために、証しする必要があるのではないだろうか。

 「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(新共同訳聖書イザヤ書五十三章四節)

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