啓示8・9章-七人のみ使いが第一から第六のラッパを吹く(11)新・星は川に落ち水が苦くなる

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

 第三のみ使いがラッパを吹くと、大きな星が天から川と泉に落ちた結果、水の三分の一は、苦よもぎに変わり、多くの人がその水のために死にます。その水が苦くされたためです。(啓示8:10,11) 

 わたしは大きな星の実体の解釈を変更しました。この大きな星は、大いなるバビロンではなく、キリスト教の大きな会衆、とりわけカトリック教会ではないかと考えるようになりました。 それで、それに伴って、「啓示8・9章-七人のみ使いが第一から第六のラッパを吹く(8)大きな星は川と水のわき出るところに落ち水が苦よもぎに変わる」を変更します。 

(1)大きな星が落ちる川と水のわき出るところとは 

 ともしびのように燃える大きな星が天から落ち、川の三分の一と水のわき出るところとに落ちます。(啓示8:10)まず、大きな星が落ちる川と水のわき出るところとは、何を意味しているのでしょうか。 

 イザヤ43章には、川や水を神が与えて、その川の水を神の民に飲ませるということが書かれています。この水は単に物質的な自然の水ではありません。なぜなら、その水を飲む結果、野の野獣、ジャッカルやだちょうになぞらえられる人が神の栄光をたたえ、神の賛美を詳しく話すようになるからです。(イザヤ43:19-21) 

霊的な川の水はそれを飲む人に神を賛美させることがある

川の水は宗教上の教えを意味する

 Global Water Partnership - a water secure world

 

 ですから、川と水とは宗教上の教えの水を意味していると思います。とりわけ、キリスト教の教えの水を表わしていると思います。 

 ヤコブ書には、人間の舌が語る言葉のさまざまな種類の泉があることが述べられています。舌という泉からエホバをほめたたえる言葉が出ることは甘いものをわき出すと表現され、「神に似た様で」存在している人間をのろう言葉は、苦いものとわき出すと表現されています。(ヤコブ3:9,11) 

 ですから、人間の舌という泉から甘い水を出す場合と、苦い水を出す場合があり、複数の水の源、泉があります。ですから、複数の泉、つまり複数の人の舌から複数の川が流れ出ていています。そして、仲間の人間に対する愛を鼓舞するのではなく、仲間の人間に対する敵意や憎しみを鼓舞するとしたら、その水は苦いと言う事ができます。 

 啓示8章によると、川の水の三分の一が苦くなり、苦い川の水とそうでない川の水が共存します。 

 それで、ともしびのように燃える大きな星が、川と水のわき出るところに落ちたとは、今日のキリスト教の会衆として最も大きなローマカトリック教会の本拠地バチカン市国の倒壊という出来事が人々が飲む多くの宗教上の教えに望ましくない影響を与えることを意味しているのではないかと思います。(啓示8:10) 

(2)水の三分の一が苦よもぎに変わる 

 ともしびのような燃える大きな星が天から川と泉に落ちた結果、水の三分の一は、苦よもぎに変わり、多くの人がその水のために死にます。(啓示8:10,11)  

  先回の記事で述べたようにアモス書によると、苦よもぎとは公正や義を投げ捨ててしまうことを意味しています。(アモス5:7;6:12)ですから、水が苦よもぎになるとは、大きな星が落ちてしまうことにより、その教えの水が公正や義を投げ捨てることを奨励する毒草に変わることを示唆しています。 

 聖書の教えは愛と公正と義を奨励しています。ですから、水の三分の一が苦よもぎに変わったとは、多くの宗教上の教えの水が、憎しみや敵意をかきたてて、神のみ言葉から離れ去ってしまうことを示唆しています。 

(3)大きな星が落ちて川の水を苦くし人々がその水のために死んでしまう 

 ローマカトリック教会は、世界で最大のキリスト教の教派です。宗教上の教えは少なからず聖書の教えの影響を受けています。イエス・キリストご自身は、剣をとって戦うことを戒め、そうするならば滅びることを警告されています。(マタイ26:52)しかし、おそらくローマカトリック教会の宗教上の教えが、神のみ言葉とその預言に反する教えとなるのでしょう。(エレミヤ23:16,17) 

 ローマカトリック教会の教会員が多数派を占める国家は少なくありません。ウィキペディアによると、ヨーロッパでカトリック信徒の多い国は、ラテン諸国といわれる国で、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、アンドラ、モナコ、サンマリノ、非ラテン諸国ではオーストリア、ベルギー、クロアチア、チェコ、ハンガリー、アイルランド、リトアニア、マルタ、ポーランド、スロバキア、スロベニア、ルクセンブルク、リヒテンシュタインです。 

 アメリカ大陸では特に南アメリカに信徒が多く、特に多いのはメキシコ、ブラジル、アルゼンチン、コロンビア、パラグアイです。アジアではスペイン、ポルトガルの植民地であった歴史的背景からフィリピン、東ティモールにカトリック信徒が多くなっています。 

Countries by percentage of Catholics.

Starfunker226 - カトリック教の国々-青が濃い方が割合が高い

世界に広範囲にカトリックの国がありその教えが背教すると影響が大きい 

 

 ですから、ローマカトリック教会の教えが「苦くなり」、神の言葉聖書から離れてしまうと、その影響は世界の広範囲に及ぶことになります。ローマカトリック教の国々は、カトリックの本拠地バチカン市国に頼っていて、そこが安泰であると、自国が神の是認を得ていると考え、キリスト教に信仰を抱くかもしれません。しかし、もし、ローマカトリックの本拠地バチカン市国が軍事攻撃を受けて、荒廃してしまうと、自分たちが信頼していたことが打ち砕かれてしまいます。

 

 そして、非常に多くの人々が神のみ言葉に反する預言の解釈を信じるようになるのかもしれません。そして、ローマカトリック教会の宗教上の教えは、信仰を失い公正と義を投げ捨て、他国の人々に対する敵意と憎しみを煽るようになるのではないかと思います。 

 しかし、その宗教上の教えの水が背教することが予期できるのは、もともと、ローマカトリック教徒が多数派だった国々だけではありません。聖書はとりわけ、もともとイスラム教だった北の王が背教したキリスト教に改宗することを預言しています。(啓示13:11)さらに、北の王は、キリスト教の宗教指導者たちを背教させることを預言しています。(ダニエル11:32) 

  北の王の奉じるキリスト教も同様に、背教して剣を携えることを禁じたイエスの命令を無視して、剣をとって南の王と戦うことを正当化するのでしょう。(マタイ26:52) 

 北の王にとってはそれが都合がいいのです。それで、現在、ローマカトリック教が多数派を占める国家の人々が、宗教上の水が苦くなる影響を大きく受ける結果になるのではないかと思います。 

 昔の背教したイスラエル人が苦よもぎを食べて、その結果、剣によって滅ぼし尽くされてしまったのと同様なことが起るのでしょう。(エレミヤ9:14-16)終わりの時に、人々は、神のご意志に反して剣をとって戦うことになるのでしょう。結果として、いわば「エホバの風あらし」が出て行き、「邪悪な者たちの頭上に渦を巻く」「大あらし」となるでしょう。(エレミヤ23:19) 

  それで、その苦よもぎのような宗教上の教えは、大患難の戦闘、つまり、北と南の間の戦闘に積極的に加わるように北の王国や、南の王国の影響が及ぶ領土でも称揚されることになるのではないかと思います。 

 そのようになれば、北の王と南の王とは、正面衝突することになり、両サイドの多くの人々が、剣をとって戦い、自ら命を失う結果になってしまうのでしょう。ですから、川の三分の一が苦くされ、その水を飲んだ人が死ぬことになります。 

(4)川の水が苦くなるのは背教と偶像崇拝が原因 

 川の水が苦よもぎや毒草のようなものに変わるのは、理由のない事ではありません。エレミヤ9章には、イスラエルの人々が神の律法を捨て、神の言葉に従わず、バアル崇拝に陥ったために、神はイスラエルの民に、「苦よもぎを食べさせ,彼らに毒の水を飲ませる。」ということが書かれています。(エレミヤ9:15) 

  また、エレミヤ23章によると、「エルサレムの預言者たちから,背教が全土に出て行ったから」、神は、イスラエル人に「苦よもぎを食べさせ」、「毒の水を飲ませ」ます。(エレミヤ23:15)ですから、古代イスラエルの人々は、最初から、聖書から離れていたために、さらに毒の水のような苦よもぎの教えを食べさせられる結果になりました。 

 同様のことが「主の日」にも起こります。エホバ神は、今日、人々が神の律法を投げ捨て、背教と偶像崇拝に陥っている状況の当然の結果が臨むようにされます。 

(5)ローマカトリック教会の偶像崇拝に対する立場 

 カトリックでは、聖画像、十字架への尊敬は「その元となっているものに払われ」ていて、「それに表現されているもの」が神とイエス・キリストと聖霊に向かう場合、偶像崇拝に当たらないとされます。その画像、ものが神を象徴しているならば、神への崇拝の道具となり、偶像崇拝にはならないとされています。 

 

The veneration of Mary, Jesus Christ, and the Black Madonna are common practice practices in the Catholic Church.Fraxinusマリアとイエスの像の崇拝はカトリック教会で普通のこと

カトリック教会では神を崇拝するための偶像は許される

聖書は偶像崇拝を一切認めていない

 

 

 しかし、これは、聖書が述べることと反します。新世界訳のイザヤ書では、「わたしはエホバである。それがわたしの名である。わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えず,わたしの賛美を彫像に[与える]こともない。」と述べられています。(イザヤ42:8)新改訳でも、「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」となっています。 

 両者とも、神は、偶像に一切賛美や栄誉を与えないと言われています。ですから、神を崇拝する道具として、偶像を用いるのは、神に是認されませんし、それは聖書の中で禁じられている偶像崇拝に当たるのです。 

 ですから、偶像崇拝に陥っていると、聖書から離反した教えに誤導されて、最終的に、命を失う結果になります。苦よもぎの毒の水を飲んで、大患難で戦い、自ら命を失う結果になります。 

 それで、わたしたちは、純粋に神の言葉に基づく霊的な水を見分けてそれを飲むことにしましょう。そうすれば、間違った宗教上の教えに誤導されて最終的に神の是認と恵みを失って命を失うという結果になることを避けられます。

 

 

純粋に神の言葉に基づくキリスト教の教えに注意を払いましょう

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