聖なる者となりなさい

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「聖なる者となりなさい」

秋葉正二
;マタイ福音書22,34-40

 レビ記から学びます。 この書物は元々独立した一つの書物ではありません。 旧約聖書の冒頭の五書は、律法(トーラー)としてまとまっていますが、レビ記はその中の一つです。 これら五書が編集されまとめられた背景には、4ないし5の元になった資料があったと見られています。 その資料の一つが聖書学ではP(priest)と呼ばれている祭司資料です。 レビ記はこのPに多くを負っています。

 Pはバビロン捕囚中から祭司グループによって書かれ、捕囚後にまとめられましたが、これらを元にがレビ記が編集されると、表現が機械的形式的になり、文学的な潤いが少ないものになってしまいました。 ですから今でもキリスト者には敬遠されがちです。 しかし神学的には優れたものがあって、神の権威や支配が見事に強調されています。 この神学的と言った部分が私たちの信仰にとって非常に重要なのです。 きょうはその部分に焦点を合わせていきます。

 少し前に、説教の中で一神教と多神教の話をいたしました。 それは私たちの信じる神さまをしっかり捉えるためです。 世界の宗教を見れば、歴史的には神さまをたくさん持つ共同体の方が圧倒的に多かったことが分かります。 古代は特にそうです。 結果的にはキリスト教とイスラム教という一神教が現代世界を席巻していますから、神さまは一人だけというのが世界の常識になっています。 ところが日本は仏教国とはいえ、多神教の世界です。 この世界の中で私たちキリスト者はどのように自分の信じる神さまを証ししていくのか、これが大きな課題です。 実はこうしたことを考えるにあたって、レビ記は大きな示唆を与えてくれます。 ですからそのつもりでテキストにあたってまいりましょう。

 17~26章は「神聖法集」と呼ばれている、王国時代には既に成立していた独立した法集です。 それを祭司グループは編集作業の中で取り入れました。 ところが、日本人にはどうもこの神の唯一性が分かりにくいようなのです。 村の中を見ても、あるいはもっと広い地域を見ても、どこにでも神さまを目で見ることができます。 鳥居やしめ縄はどこにでもあります。 ですから、唯一の創造主などという、被造物から見れば絶対に交わることなどない存在を認識するのは難しいのです。 とはいえ、私たちは聖書の神さま、イエス・キリストの父なる神さまを伝える責任がありますから、諦めるわけにはいきません。

 19章は「神聖法集」に属していますが、レビ記独自の法的なが特徴が見られます。 その第一が2節に出てくる「私は聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」という定型句です。 「聖なる」というのは、元来「区別」を表しました。 即ち、他のものとは全く区別されたものとして、神は「聖なるもの」として存在しています。

 そういうわけですから、旧約聖書において「聖」は、この神さまとの関係を表す概念ということになります。 例えば、神が臨在される土地は「聖なる地」ですし、そこで悪が行われれば、その地は「汚れた地」です。 すぐ前の18章に書かれています。 さらに、イスラエルの民は聖なる神により選ばれた民ですから、「聖なる民」です。 これは続く20章に出てきます。 この聖なる神との交わりに生きるイスラエルは、周囲の多神教という異教的な宗教の生活に巻き込まれてはならなかったのです。

 そこで『聖なる者となりなさい』という勧告は、聖なる神さまとの正しい関係を保つことであり、その戒めを守ることになります。 簡単なことではないのですが、祭儀を通せば保ちやすいのです。 そこでレビ記では、詳細な献げ物の規定がなされることになりました。 17-26章が「神聖法集」と呼ばれるのは、この『聖なる者となりなさい』という言葉があるからです。

 さてレビ記の記者は3節以下で、出エジプト記20章の「十戒」や「契約の書」を意識して、宗教的・倫理的な戒めを集めました。 それらは十戒と同様断言法ですが、罰則の規定はありません。 「神聖法集」の編集者が、いろいろな形で伝えられていた法の中から、「これは重要だ」と思われるものを集めたのです。

 まず3節には、『父と母を敬え』と『安息日を守りなさい』が掲げられます。 十戒の第5戒と第4戒です。 この戒めを最初にもってきたのは、捕囚期の混乱が関係していたのでしょう。 捕囚という厳しい出来事では年老いた親たちが最も苦労をしたと考えられるからです。 4節に行きますと、偶像礼拝禁止という十戒の第1戒と第2戒が出てきます。 捕囚の地であるバビロンは大帝国の都ですから、金属の壮麗な偶像に溢れていました。 そうした環境で、イスラエルの民は自分たちの神さまをもう一度しっかり再認識しなければ、自分たちの信仰はダメになると考えたに違いありません。 そういう時に十戒があったということは大きな信仰的支えだったでしょう。

 続く5節以下にも次々と戒めが掲げられていきます。 特に9-18節の「隣人愛の戒め」は現代でも充分に通用する内容をもっています。 隣人に対する義務が述べられているのですが、とりわけ弱い立場の人たちに対する配慮の規定は素晴らしいものです。 それは元々イスラエルの法の特徴でもあったわけですが、レビ記は改めてそれを確認しています。

 9-10節の落穂拾いの規定などは、申命記やルツ記で私たちが慣れ親しんできた規定です。 収穫時に畑の隅まで刈り尽くしてはならないという規定は、古代のイスラエル人が貧しい人たちのことまでちゃんと考えていたということの証拠ですから、読んでいて心が温かくなります。 その根底には、もちろん土地はそもそも神さまのものであって、地主も小作人も共に神の恵みに与るべきだという信仰思想がありました。

 イスラエルという国は永遠の弱小国で、その歴史はほとんど外国に痛めつけられた歴史です。 うまくいった時期はほんの僅かしかありません。 周囲の国々に並び立とうと王国をつくったのに、結末は捕囚でした。 しかし彼らは信仰を失いませんでした。 なぜ失わなかったのか、その理由を私たちはしっかり理解しておく必要があります。

 彼らの神さまとの向き合い方が鍵です。 またそこには歴史が絡んでいます。 イスラエルは異民族の侵入や戦争や王国の成立といった大きな変化の中で、何度も社会が壊れてしまう経験をしました。 バビロン捕囚はその最たるものです。 自然も壊れるし、もとの社会がぐちゃぐちゃになったのです。 そうした困難な局面でどうしたかということが、多神教世界の中に唯一神が確立していくきっかけです。

 人間が人間らしく連帯して生きていくにはどうしたらいいのかという問題ですが、古代ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教の他にもほぼ同時に世界では仏教や儒教が興っています。 それらは皆それまでの多神教という伝統社会と対立しました。 日本はそういう意味ではとても珍しい国で、これというほどの他国の侵略もなく、割合平和な歴史を刻んできました。 村々には身近に鎮守の神さまがいて、自然と人間がうまくバランスよく生きてきたと思います。 異民族の侵入もない一応平和な歴史の中で、多神教信仰が保たれてきた比較的珍しい社会です。 だから切実に神さまと緊張関係をもって向き合うことなどは、理解しにくいと思います。

 古代仏教のテーマは、人間がこの宇宙をどう理解するかという問題でした。 そこにある宇宙の法則をいかに認識するかということが悟りでしょう。 そこには当時インドにたくさんいた神々の出てくる余地はありません。 後の時代の仏教は発展段階で次々に神さまに相当する存在を生み出しましたが、本来は宇宙の真理を究めようということが出発点です。

 一神教もそういう意味で言うならば、神々との闘争の中に成立した信仰です。 ユダヤ教ですと、古代オリエントの神々と闘争してヤーウェの神さまがはっきり認識されるようになったわけですし、キリスト教では、神認識の背景にギリシャやローマの神々との闘争がありました。 そのような歴史の中で、弱い立場の人たちに配慮したり、貧しい人々も一緒に神さまの恵みに与るべきだと主張する信仰が誕生したということは、私は驚くべきことだと思っています。

 唯一神は他の神々を否定するわけですから、多くの人々が拝んでいる神々はみんな偶像礼拝ということになるのです。 イエスさまはファリサイ人の『律法の中でどの掟が最も重要でしょうか』という質問に答えて言われました。 申命記の引用です。 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。 つまり「あなたの神である主」とはイスラエルの人々が辛酸を舐めてきた歴史の中で見出した神さまのことなのです。

 また続けて言われた第二の答えは、『隣人を自分のように愛しなさい』でした。 神さまへの愛と隣人への愛が表裏一体になっています。 隣人愛を欠く神への愛は、それがいくら熱心であろうと、独善や錯覚に陥る危険があります。 きょうのテキストで言うならば、レビ記の記者は9節以下でそれを述べています。 イエスさまはちゃんと理解された上で、そうした旧約の言葉を引用されておられます。

 言葉を変えて言うならば、聖書の神、イエス・キリストの父なる神への愛は、超越的な視点からの反省を人間に与えるのです。 そのことを抜きにした隣人愛は確かにヒューマニズムではありますが、いつでもナルシシズムに陥る危険性があります。 私たちには実生活の中で、切実に神さまと向き合う姿勢が欠けているように思います。 少なくとも私は間違いなく欠けているな、と反省しました。 皆さんはどうでしょうか。 ひとつきょうの礼拝を機会に、神さまに向き合うつもりでレビ記を読んでみてください。 きっと神さまとの生き生きとした関係など、信仰上の素晴らしい発見があるはずです。 祈ります。


 
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