「すべて真実なこと」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

この礼拝から始まる「カンファレンス」の主題は「世界の宗教・私の信仰」である。今日の説教では、この主題に沿っていつもよりは少し自由に話してみたい。

私は今から55年前に洗礼を受けてキリスト者になり、やがて神学校で学んで牧師になった。この道に進んだ決定的な動機は、聖書の言葉との出会いである。戦後、「いかに生きるべきか」全く分からず、途方に暮れていた15歳の私は、ある時「汝の敵を愛せよ」という言葉を偶々耳にして深く心を打たれ、もっと聖書のことを知りたいと思った。一年ほど経ってから、八戸である教会と出会い、やがてシベリヤから帰ってきた真実な牧師と出会い、礼拝に通って良い人々と出会う中で、聖書の教えが少しずつ分かり始めた。そして、「ここに私の生きていく道がある」と確信したのである。だから、私がキリスト教を「選んだ」というよりも、むしろ「選ばれた」、あるいは「聖書が声をかけてくれた」ような気がしている。キリスト教の教義を系統的に研究した末に理性で納得したということでも、諸宗教と比較して「キリスト教が一番いい」という結論に達したわけでもない。その点、私は甚だ素朴であった。

もちろん、日本には古来神道や仏教があり、それに基づく生活習慣があるということは体験で知っていたが、それらの宗教の教えについては無知に等しかった。私にとって神道や仏教は、大多数の日本人を支えて来た伝統的宗教として昔から「そこにある」ものであった。それは単純にこの世界の現実であって、私はこの現実の中にいたに過ぎない。そして、現実にそのような宗教がある中で、私の心の奥底にまで迫ってきたのはただ一つ、イエスの愛の教えだったのである。私は、「これで生きることができる」と信じた。

この世には無数の人間がいるが、夫・妻・パートナーとして選び、選ばれるのはただ一人である。だからと言ってそれ以外の人々が悪いというわけではない。私はこの人と「出会った」のだ。

信仰もこの「出会い」と似ている。私は要するにイエスと出会い、これで生きて行けると思った。だが、私の信仰だけが絶対に正しいとは思わないし、他の宗教をケナしたり攻撃したりする気もない。よく、「唯一神教は他の神々を認めないので、他宗教に対して攻撃的だ」と言われる。確かに、歴史上そのような実例があったことは私も認める。だが、これは私が信じるイエスの心ではない。

聖書学者たちによれば、イスラエルの信仰は本来「唯一神教」というよりは「拝一神教」だという。他の宗教が現実に存在することを容認し、それを前提した上で「自分たちは神(ヤハウエ)が示された道に従って生きる」と決断する。この意味で「拝一」である。この神は、取るに足りない自分たちを契約の相手として選ばれた。だから自分たちも、この契約の神に対して真実であることを約束する。だから、他宗教を原理的に否定したりすることは主な関心事ではない。確かに旧約聖書は、偶像礼拝(たとえば「バアル礼拝」)を厳しく否定しているが、これは本来、自分たちの信仰のあるべき姿を失わないための自己批判に他ならないのである。

イエスは、基本的にはユダヤ教の信仰によって生きていた。しかし、私の知る限りユダヤ教の伝統教理を絶対化したり、その立場から他宗教を否定したりしたことは一度もない。むしろユダヤ教の戒律を原理主義的に固守しようとするファリサイ派を批判し、律法の本来的な意味を掘り起こそうとした。「人と人とが愛によって結ばれ、共に生きていく」ことこそ神の意志であることを明らかにしたのである。

このイエスが私と出会って下さった。そして私は、「すべての人が人として大切にされ、そしてどんな人とも愛し合って共に生きていく」という、真に生きる道をイエスによって示された。それは、宗教というよりも「命への道」である。だから私は、キリスト教と他宗教を比較して優劣を論じたりすることには関心がない。いろいろな宗教が存在し、それを信じる人々が現実に生きているという事実を尊重して、それらの宗教の中に正しく尊い教えがあれば、それにも耳を傾けるべきだと思う。

東京女子大学本館の正面の壁に、quaequnque sunt vera という言葉が刻まれている。フィリピの信徒への手紙 4章8節、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」の中の、「すべて真実なこと」のラテン語訳である。

これを教えたとき、パウロはギリシャ哲学、とくにストア派の倫理を念頭においていたという。つまり、キリスト教以外の哲学や宗教であっても、もしそこに真実で気高く、正しい教えがあるならば、また清く・愛すべきこと、名誉なこと、称賛に値することがあるならば、それを心に留めて尊敬しなさい、というのである。

我々の信仰は、狭い「キリスト教絶対主義」ではない。「キリスト教絶対主義」は、4世紀にローマ帝国の国教になってからキリスト教自体の中に生じた数々の歪みの一つであって、イエスの心ではない。イエスは自らを低くして他者に仕えたのに、帝国の国教となったキリスト教は支配者の位置につき、特権を貪り、次第に高ぶるようになった。これが諸悪の根源である。その後、西洋世界は「キリスト教的ヨーロッパ」と呼ばれるようになり、キリスト教が唯一の・最高の価値であるとされた。それ以外の諸宗教は邪教として排斥されるか、未発達の原始的宗教として軽視・無視された。十字軍や戦闘的な海外布教は、この絶対主義的な意識が生み出した過ちに他ならない。これは我々が克服しなければならぬ負の遺産なのである。

哲学者の滝沢克巳は、初め西田幾多郎の影響を受けて禅の思想に傾倒したが、西田の勧めに従ってドイツに留学し、神学者カール・バルトの薫陶を受けた人物である。その後洗礼を受けてキリスト者となったが、その滝沢が1983年、当時小学生であった孫の賢介君の「仏教とキリスト教とどちらがいいか」という問いに答えて、次のような真摯な返事を書いている。

「賢ちゃん、この間は善い手紙をどうも有り難う。あれから風邪を引いて寝込んでいたので、返事が遅くなってしまいました。それでも寝ている間もずっとあの手紙のことを考えていたのです。『仏教とキリスト教とどちらがいいか』ということ、それぞれに特徴があるので一概にどちらが善いとか優れているとか言うことは出来ません。しかし、仏教にとってもキリスト教にとっても、一番大事なことは決して難しいことではありません。…一言で言うと、人間は皆 ―― 男も女も、老人も子供も、善い人も悪い人も、浄らかな人も穢い人も、一人の例外もなく ―― そのままですぐに、神様の子供、一人一人かけがえのない可愛い子供だ、という根本的な事実です。それだから僕らは、どんな時にも心の底では安心していていい」。

続けて彼は、「仏教もキリスト教も、その始まりの釈迦もイエスも、それぞれの時と処でこのような生命の真理を体現した人です」、と書いた。

生命の真理!

まことにこれこそが問題なのである。ある宗教が、教理や形式などを絶対化して、「自分たちの宗教こそ唯一の真理だ」などと言い張るようになると、必ず融和不可能な争いが起こる。どのような人とも愛し合って共に生きて行く。それを可能とするものは何か。これを真剣に求めたい。

イエスは、もちろんイエスだけではないが、この生命の真理を我々に明らかにしたのであった。

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Emmanuel

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