「神のまっすぐな道」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・7・11

「神のまっすぐな道」

村上 伸
イザヤ書 40,1-5 ; ルカによる福音書 3,1-6

この所、しばらくイザヤ書に「はまって」いた。水曜日の祈り会もイザヤ書の素読、日曜日の説教テキストもイザヤ書。ある人に、「この頃なぜ旧約聖書ばかりですか」と聞かれた。

一つの理由は、イエスのメッセージを理解するためには、旧約聖書をもっと深く知ることが不可欠だからだ。新会堂で礼拝をするようになってから、先ず 最古の福音書であるマルコについて、その後は「主の祈り」について連続の説教をしてきたが、その間私は、いつか旧約聖書について説教したいと思っていた。イエスはユダヤ人である。律法の解釈をめぐって当時のユダヤ教指導者たちと対立した結果死刑に処せられたとはいうものの、彼は旧約の律法を「廃止するため」に行動したことは一度もなく、むしろそれを「完成するために」(マタイ5,17) 生きた。彼の生き方や考え方の深層には、基本的にユダヤ人の「聖書」である旧約聖書の信仰が流れている。だから、イエスを理解するためには、西欧の合理主義的な解釈から自由になって、旧約聖書の豊かな地下水をもっと汲み上げることが必要である。

ピンカス・ラピーデとか、ブラッド・ヤングのようなユダヤ教の学者が新約聖書について書いたものを読むと、教えられる所が甚だ多い。例えばラピーデは、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5,22)というイエスの言葉について、古いタルムード(ラビの教え)を引用して説明する。「人を侮辱して相手の顔からすっと血が引くような時、実はその人の血を流しているのと同じだ」というのだ。こういう説明を聞くと、目から鱗が落ちるような感銘を受ける。

特に、福音書にはイザヤ書の引用が多い。そこで、暫くはイザヤ書について学んできた。だが、この辺でもう一度福音書に帰りたい。今度は、ルカである。最初の部分はクリスマスの頃に取り上げたことがあるので、3章以後を選択して話したい。

 

最初にこの福音書の著者について述べておくと、従来は、使徒パウロと一緒にあちこち旅行した弟子で、医者であったルカであると信じられてきた。しかし、研究が進んだ現在では、どうもそうではないらしいというのがほぼ定説だ。恐らく、ヘレニズム文化の中で教育を受け、ギリシャ語の素養も深く、ユダヤ教にも精通した異邦人キリスト者であったらしい、という所までは分かっている。

マルコ福音書と、イエスの言葉を伝える「Q資料」を材料として、独自の歴史観に基づいて、80年代に書かれたと考えられる。マルコと比べるとずいぶん感じが違うが、最大の特徴は、「世の終わりが近い」という、原始キリスト教に特有の終末論的な歴史観が著しく後退しているということであろう。紀元80年代ともなれば、大抵の人が「終末は来なかった」と感じていた。むろん、終末論がすっかり影を潜めてしまったとは言えないが、少なくともマルコが持っていたような切迫感はない。歴史は相変わらず続いている。神を信じる者たちは、その歴史的世界の中でこれからも生きて行かなければならない。それは「教会」という形を取る。つまり、今やこの地上の歴史の中に「教会の時」が始まっている。このルカの見方は、現在の我々にとっては、マルコよりも身近かな考え方ではないか。今日の個所の冒頭で歴史的な時と場所の確認が行われているのも、そのためであろう。

「皇帝テイベリウスの治世の第15年」。この第二代皇帝の在位は、紀元14年から37年までだったから、この「第15年」というのは西暦28年のことである。「ポンテイオ・ピラトがユダヤの総督」。このピラトは、イエスの裁判に立ち会った人物である。その後に、ユダヤ内部の勢力地図が描かれる。ヘロデ・アンテイパス、その兄弟フィリポ、それからリサニアがそれぞれ領主として支配していた地域の名が挙げられる。最後に、当時のユダヤ教の、実質的な支配者の名が示される。

これによって、イエス、あるいは先駆者ヨハネが登場したのはいかなる時代・いかなる場所であったか、ということが明らかにされた。そして、「神の言葉が荒れ野でヨハネに降った」(2)。ルカは、それはイザヤ書の預言通りだと言って、を引用する。この歴史的世界の中で、お前たちには「主の道を整え、その道をまっすぐにする」という使命が与えられている、というのである。

我々の時は限られている。誰でも、いつかは終わりを迎える。しかし、神が与え給うた人生は、やがて終わる無意味な時というようなものではない。この世界の歴史も同じだ。そこには多くの人との出会いがあり、次々に喜ばしい、時には苦しい経験が繰り返され、そしてそれは次の時代に受け継がれる。これが神の道である。

だから、いつか終わるからといって、刹那的に、投げやりになってはいけない。1日1日には神から与えられた意味があり、そして、一人一人との出会いにも意味がある。ルターは、「明日世の終わりが来ようとも、今日私はりんごの木を植える」と言ったが、我々にも、歴史を貫いている「神のまっすぐな道」をいよいよ真っ直ぐに、いよいよ明らかにする責任を与えられているのである。これは個人個人について言えるだけではない。我々のこの教会についても当てはまる。

そして、「神のまっすぐな道」とは、この世界に正義と公平が実現されるということに他ならない。我々は、限られた時の中でもこの使命を果たしつつ生きるのである。



The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help