前回、この福音書の著者は独自の歴史観に基づいてこの福音書を書いた、と述べた。例えば、マルコにはまだ濃厚に残っていた終末論が後退し、その代わりに歴史は相変わらず続くという意識が前面に出て来る。3章の冒頭で歴史的な時と場所を確認しているのも、そのためである。今やこの地上の歴史の中に、「教会の時」が始まった。これがルカの基本的な見方である。このことを確認した上で、話を進めたい。
さて、イエスは故郷のナザレに来た。そして、「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」(16)。
ユダヤ教の会堂における礼拝とは、どのようなものだろうか。
私はスイスのバーゼルで一度だけ、それを経験したことがある。我々は「異邦人」だから、ユダヤ人がかぶるお椀のような帽子を持っていない。受付に、ビジター、ないしは「求道者」のために貸出用の紙の帽子があり、それを借りてかぶった。中に入ると、祭司が朗々と、見事なバリトンで聖書を読んでいた。すべてヘブライ語だから私には分からなかったが、会衆は旧約聖書のその個所を開いて聞きながら、小刻みに上体をゆすっている。
聞くところによると、会堂の礼拝は申命記6,4-9の「信仰宣言」(シェマー)で始まるという。その後祈りが捧げられ、そして聖書(モーセ五書の一部と預言書)が朗読される。イエスがナザレの会堂に入られた時も、そんな風だったのではないか。
さて、預言者イザヤの巻物がイエスに渡された。それを開くと、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(18-19)、という個所が目に留まった。
これはイザヤ書の言葉だが(大部分は61,1-4、それと58,6の一句)、巻物だから、我々が聖書を開くのとは違ってパッとそこを出すわけにはいかない。61章といえばかなり後の方だから、出すためには巻物をどんどん巻いて行かなければならない。相当時間がかかったのではないか。そんなことが一寸気になるが、これはまあ、どうでもいい。とにかく、この印象的なイザヤの言葉が目に留まったのである。
このイザヤの言葉をイエスは、自らの人生の意味、あるいはこの地上で彼に与えられた使命を示すものだと受け取った。「この聖書の言葉は、今日、…実現した」とルカは書いているが、これはそういう意味だ。
我々は今日から始まる二日間の修養会において、「イエスに従う私たちの教会」という主題で共に語り合い、祈りを共にするが、その大前提は、このイエスの自己理解である。イエスは、地上における彼の使命を、このように受け止めた。この点から我々は出発しなければならない。何らかの人間的な願望からではなく、イデオロギーからでもなく、イエスご自身が使命として受け止めていた事柄を確認することから出発し、そのイエスに従って歩むことを志す。これが今回の修養会の、そして今後の教会の目標でなければならない。
それでは、イエスの自己理解とはどのようなものであるか。
先ず、「主の霊がわたしの上におられる」(18a)と言われていることに注意したい。彼の自己理解の第一は、これである。彼の語る言葉や癒しの業は、彼のうちに自然に備わった才能によるのではない。その意味で彼は、「宗教的天才」ではない。彼のうちに見えざる神の霊の力が降り、この霊の力に満たされ、遣わされて、彼は生きたのである。この直前の14節に、「霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」とあり、4,1にも、3,22にも同様のことが記されているのは、そういう意味である。
次に、「そのために主がわたしに油を注がれた」と彼が理解した使命は、「貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にする」(18)ことであった。
「貧しい人・捕らわれている人・目の見えない人・圧迫されている人」という言い方は、この福音書にしばしば現れる。この後の6,20以下には、「貧しい人・飢えている人・泣いている人・迫害される人」と列挙されているし、7,22には、「目の見えない人・足の不自由な人・らい病を患っている人・耳の聞こえない人・貧しい人」と言われている。14,13も同様だ。そして、どの場合も、「貧しい人」が必ず入っている。これはこれら苦しむ人々の総称である、とある注解者は言う。そして、この人々に「主の恵み(ヨベル)の年を告げる」ことが、イエスの使命なのである。
昨年の修養会では、我々は「いと小さき者に対するイエスの優しい眼差し」を合い言葉のようにして考えた。同じことを、今日の個所は「貧しい人に主の恵み(ヨベル)の年を告げる」と言う。これこそ、我々の教会の使命であろう。
1968年正月、カール・バルトを自宅に訪問した時、彼はヨーロッパのキリスト教が第4世紀以来、イエスから離れて富と権力を所有するようになったことを嘆き、日本の教会は決して西欧の教会をモデルにしてはならないと強調した。もし日本のキリスト教の中に、そのように「大きくなること」に対する憧れが少しでもあるならば、それは払拭されなければならない。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.