真言宗の不動明王と大日如来と富士山信仰とエホバ神の違い

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

今回は、高野山の密教の信仰対象である不動明王についてまず説明します。不動明王は大日如来の下位の立場にあるとみなされることもあります。さらに、大日如来について説明します。また、密教の大日如来と聖書の神がどのように異なるかを説明します。

(1)仏教の密教の信仰対象である不動明王 不動明王はサンスクリット語の語があるので、インドに由来する密教仏教の信仰対象です。不動明王は、大日如来の化身と言われたり、大日如来の使いと言われることもあります。また、五大明王の中心となる明王でもあります。真言宗、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道(山岳信仰)で幅広く信仰されています。

高野山赤不動

 ですから、ある仏教の宗派では、不動明王は大日如来の下の地位にありますが、不動明王自体が、最高神として崇拝される場合もあります。 

 起源をヒンドゥー教のシヴァ神とする説もあります。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、怒った姿をしているとされています。インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その像の例は非常に少ないです。日本では、密教の流行に従い、盛んに像が造られました。

 わたし自身は、正直に感じたことを申し上げれば、日本の普通の不動明王の絵画や像を見てみても、不動明王が少しも魅力的に思えません。ただ単に、不動明王の絵画を見てみると、人間だったら、頑固な怒りっぽい愚かな変人に見えます。姿も全然センスがなく、かえって醜いと言ってもいいかもしれません。

 それで、自分が崇拝する神をそのように醜く描くのもどうかと思いますし、どうしてそうした感じの神を自分の神として選ぶことができるのかが全く理解ができません。

 どうして、愛がある美しい神を崇拝したいと思わないのか、まず、不動明王を崇拝する人々のセンスを疑いたくなります。申し訳ありません。

 聖書の神の場合には、まことの神の容ぼうの詳しい描写はありません。しかし、聖書はエホバ神をサファイヤのような王座に座っている人のような姿をした方として表現していることもあります。(エゼキエル1:26)

  また、火の炎のような座に座っておられ、真っ白な衣服を着て、真っ白な髪をされた年をとった方として描かれていることもあります。(ダニエル7:9)また、エホバ神はある場合、エメラルドのような虹がかかっている座に座られた赤色の宝石、あるいは碧玉として描かれていることもあります。(啓示4:3)ですから、エホバ神のイメージは、知恵のあるとても美しい超人間的な方として描写されています。

エホバ神は聖書の中で大変年をとった知恵のある美しい義なる愛の神として描写されている

 このように美しい方こそ、わたしたちの崇拝に値するのではないでしょうか。

(2)密教の本尊である大日如来

 

胎蔵曼荼羅の胎蔵大日如来(中央)

大日如来は不動明王より上の地位だが単なる宇宙の原則だとされている 

 大日如来とは真言密教の本尊です。空海によると、大日如来の「本質は、宇宙の真理としての仏の身体・言語・意識の三つの神秘的な働き」です。ですから、大日如来とは、宇宙に偏在し、満ちている姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと考えられています。 インドの太陽が大乗仏教では大日如来とみなされる場合があります。また、大日如来は、神道の天照大神と同じであるとみなされる場合があります。本来、日本に仏教が到来した時、受け入れるかどうか争いがありましたから、ヒンズー教や仏教の神や仏と神道の神とは異なるはずです。ですから、別々の神とみなすのが正しいです。

(3)キリスト教の神の概念と大日如来の違い 聖書のキリスト教の神の場合、密教の大日如来のような象徴的な真理ではありません。神は「真理の神」ということはできますが、まことの神は何かの法則や真理ではありません。(詩編31:5) 神は明確な「霊」の体を持っておられます。(ヨハネ4:24)わたしたちが塵でできた「物質の体」を持つように、霊者たちも、「天的な者」として「霊的な体」を持っています。(コリント第一15:44,48,49)エホバ神も霊の体を持たれます。 ですから、聖書の神は、実体があり、特定の場所に臨在され、宇宙に充満しているわけではありません。そして、わたしたち人間がひとりひとり個性を持っているように聖書の神エホバもひとつの個性ある人格を持っています。ですから、大日如来は聖書の神とは異なります。

 そして、エホバ神は上で述べた通り、知恵があり、非常に年をとった美しい方として描かれています。そして、神が白い衣を着ておられることが示しているように、神は、義なる方です。(啓示19:8)神は、利己的な理由で憤られることはありません。

 不動明王が示唆しているようにエホバ神は利己的な理由で怒りを表明することはありません。エホバ神の被造物に対する愛のゆえに、被造物を幸福と平和を損なう者たちに対して怒りを表されます。

  エホバ神の怒りはご自分の崇拝者たちに対する愛の裏返しです。エゼキエル書の預言の中にも、ご自分の忠実な崇拝者たちに対してマゴグの地のゴグが攻撃しようとするときに、ゴグに対する怒りが鼻に上ると述べられています。(エゼキエル38:18,19)

 また、夫が自分に対して裏切る妻に対して怒りを表すことがあるように、エホバ神も、ご自分に対する忠実から離れて他の神や他の国家などに霊的な売春をする神の民に対して怒りを表されることも書かれています。(エゼキエル23:25,27。出エジプト34:14)それで、エホバ神が怒りを表されるのは、正当な理由です。⑷富士山の大日如来信仰 日本では古来山岳信仰が存在していましたが、平安末期に、大日如来を富士の本尊とする信仰が創始されたと言われています。富士における大日信仰はその後、大日如来を富士の神である浅間大神、また浅間大菩薩とする信仰として発展し、富士山で祀られています。

江戸村のとくぞう

富士山の吉田登山口にある北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)

 この富士山登山口にある浅間神社派の祭神は、木花開耶姫(このはなさくやひめ)と瓊瓊杵命(ににぎのみこと)です。神道の一派である扶桑教(ふそうきょう)によって信仰されています。以前は、「浅間大菩薩」「富士浅間明神」として祀られていました。それで、富士山を神として崇拝する信仰と神道や仏教のさまざまな神や仏が結び付けられて祀られています。

 それで、神道や仏教や民間信仰では、さまざまな神や仏を結び付けて崇拝することが行われています。しかし、エホバ神は、ご自分を崇拝するといって、金の子牛を崇拝することを容認されず、金の神の崇拝者に災厄を下して処罰されました。(出エジプト32:8-10,35)しかし、エホバ神はモーセのとりなしのために、イスラエル人がすべて滅びるようにはされませんでした。

エホバ神はご自分を崇拝するのだとして金の子牛の崇拝をしたイスラエル人におそらく疫病によって災厄を下された

 この災厄の中のひとつは疫病でした。(列王第一8:37)その時、荒野のイスラエル人は、疫病で命を失ったのかもしれません。(民数記16:47-49)エホバ神はご自分以外の偶像や神に対する崇拝を一切容認されません。エホバは、「わたしはエホバである。・・・わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えず,わたしの賛美を彫像に[与える]こともしない。」と言われています。(イザヤ42:8)

 それで、エホバ神は一切誉れや栄光を他の神や偶像に分け与えることはされないと言われています。エホバ神はご自分以外の偶像や神をご自分になぞらえて神の民が崇拝する場合、民が疫病によって命を失う事態が生じることを許されることがあります。エホバ神は、ご自分を他の神と結び付けて崇拝することを受け入れられません。

 それで、私たちはある神を崇拝することはエホバ神を崇拝することを意味すると言われても、他の神や偶像を崇拝することを一切避けて、エホバ神だけを崇拝しましょう。

 

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