「イエスの言葉に従って」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・7・25

「イエスの言葉に従って」

村上 伸
イザヤ書 12,1-6 ; ルカ福音書 5,1-11

 

これと良く似た話がヨハネ 21,1-14 にある。

夜通し漁をして何も取れなかった弟子たちに、同じように夜が明ける頃、イエスが現れたという。ただ、ルカの方では生前のイエスだが、ヨハネでは復活の主となっていて、この点は違うが、構造はほとんど同じだ。おそらくルーツは同じで、背景には「復活の信仰」がある。

ルカは、十字架と復活の出来事の50年ぐらい後でこの福音書を書いたわけだから、生前のイエスの物語も、「復活の信仰」に基づいて書いたことは当然だ。

イエスは苦しむ人々に「恵みの年を告げる」ことを自らの使命として、そのことを言葉と行いを通して実証した。最後は、そのために自らの命を捧げた。ここに、我々は神の真実を見る。この真実が通り一遍のエピソードとして忘却の彼方に消えて行くということは有り得ない。それは生き続ける。これが、ルカも含めて初代教会の信仰であった。イエスは死から甦り、全能の神の右に挙げられ、すべてのものの「主」として、そこから地上の歴史に関わる。

福音書が、悪霊でさえイエスに屈服したこと、数多くの難しい病人を癒したこと、今まで神に従わない生活の中にあった人々がイエスに従って生き始めたことなどを語る時、復活したイエスこそ「すべてのものの主である」という信仰に導かれていたのであり、今日の「大漁物語」も、そのことを証しするものだ。

 

さて、この物語を見てみよう。

弟子たちはいわば「プロの漁師」であった。一方、イエスは伝説によれば大工の息子である。いずれにせよ、彼が漁師をやっていたということは聞かない。だから、魚を捕ることに関しては、「ずぶの素人」である。その素人が、一晩中漁をしても取れず、諦めて「網を洗っていた」(2) 経験豊かなプロの漁師たちに向かって「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4)と命じた、というのである。

「一体何を言うのか」、と彼らは思ったに違いない。だめな時はだめなのだ。俺達には長い間の経験で分かっている。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」(5a)というシモンの言葉は言外に、経験を積んだ者の誇りと、素人イエスに対する抗議の気持ちを含んでいる。

だが、シモンはその後で、自分たちの経験を乗り越えようとする。ここが肝心な所である。彼は、自分の経験を絶対化しなかったのだ。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5b)。

 

ここには、考えるべきことが多くある。

我々は、自分の見たこと・聞いたことを、つまり自分の経験を絶対化する傾向がある。1945年の4月、旧ソ連軍がベルリンになだれ込んで占領した時、彼らは略奪・暴行の限りをつくした。それを経験した多くのドイツ人は、頑固な反共主義者になったばかりか、ドイツが犯した恐ろしい罪を反省することを避ける口実にした。「悪いのは何もドイツだけではない」というのである。自分の見たこと・聞いたことを超えて、もっと大きな視点から考える想像力を失い、こういう仕方で自らの経験を絶対化するのである。同じことは、日本にもあるだろう。

自分の経験にも意味はある。だが、それを絶対化しない。「しかし、お言葉ですから」と言って、他者の言葉を受け入れる。もしかしたら、自分の思っても見なかった可能性が、自分の経験を超えた所にあるかもしれない。そのように自分を開く。このような態度は重要だ。信仰というのは、自分の考えに凝り固まることではなく、このようにイエスの言葉に対して自分を開くことではないか。

 

今日の礼拝後、初めての読書会で、パネンベルク『自然と神』を読むが、その中に重要な指摘がある。自然科学と神学(信仰)との関係についてである。自然科学が広く認知されるようになってから、科学的な認識に関して信仰は一切発言する資格がないかのように、両者を断ち切ってしまう傾向が一般的だが、パネンベルクはこれに疑問を提出する。自然科学は絶対化されてはならない、むしろ、信仰の立場から科学に対して根本的な問いかけをすべきだ、と言うのだ。それを怠って来た結果が、自然や環境の破壊につながったのではないか、と言う。

 

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ってイエスの言葉に従ったシモンは、自分たちの経験を超越したのである。すると、これまでの経験からは想像することもできないような結果が起こった。シモン・ペトロは驚嘆し、イエスの足元にひれ伏して罪を告白する。「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者です」(8)。

自分の経験から導き出した結論を、私はどこかでやはり「絶対のもの」と考えていました。この傲慢は、あなたに相応しくありません。私を離れて下さい!

だが、正にこのような罪を告白したシモンとその仲間を、イエスはご自分の使命に参加する者としてお用いになったのだ。これが、今日の福音である。



The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help