祈りと施し、それに毎週二回の断食は、熱心なユダヤ教徒の宗教的慣習であった。しかし、イエスの時代、それは既に偽善的な習慣と化していたことは、マタイ6章などからも知られる。この偽善を、イエスはわざと飲んだり食べたりするというパフォーマンスによって批判したが(33)、さらに深い所には、「主の恵みの年」が来ているというのに嘆きの徴である断食をいつまでもしているわけにはいかない、という認識があったのである(34b)。
「新しい服から破り取った布」(36)とは、まだ晒していない布のことで、洗濯した時にひどく縮むために、縮むだけ縮んでしまった古い服に縫い付けることはできない。また、「新しいぶどう酒」というのは、醗酵過程のごく初期のワインを指す。これを古い革袋に入れると、醗酵が盛んになった時に革袋は破れてしまう。いずれも、イエスによって福音が告げられているこの時に、ユダヤ教古来の習慣を頑なに守り続けることは相応しくないという比喩であろう。
イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)と言ったが、「悔い改め」(メタノイア)とは、福音に相応しく姿勢を正すという意味での「方向転換」を意味する。今日の所で「新しいぶどう酒は新しい革袋に」と言われているのも、基本的にはそういうことである。
さて、今日は平和聖日。今日、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れる」、つまり、福音に相応しく姿勢を正すということは、どういうことを意味するのであろうか?
先ず、明治以後の我が国の、15年戦争にいたる傲慢な歩み、その結果としての敗戦を、神の審判として厳粛に受け止めて悔い改めることである。戦後の日本は、確かに新しい憲法で戦争を放棄した。その意味で一定の反省をしたと言えるが、最近の状況を見ると、本当に反省をしたのかどうか疑わしい。新ガイドラインという名の「戦争マニュアル」、「盗聴法」や「国旗・国歌法」の制定、「憲法調査会」の設置などによって、戦後の誓いは今や総崩れになった観がある。そして、何よりも悪いのは、教会の多くがこのなし崩しの変化に対して至って鈍感であることだ。
この時に当たって我々は、1967年に日本基督教団総会議長・鈴木正久の名で発表された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を、改めて心に刻みたい。これこそ、戦後の日本基督教団の実質的な再出発のスタート台だ。代々木上原教会も、合同して最初の総会で、この「戦責告白」を一致して承認しているが、先日の修養会の席上で、「内容を詳しく知らない」という発言があった。そこで、全文を朗読し多少の説明を試みた。今日の礼拝でも全文を朗読したい……。
この中に、「心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主の赦しを願うと共に、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、また我が国の同胞にこころから赦しを請う」という一句がある。これこそ、「戦責告白」の中心であって、今後、アジアの諸教会と力を合わせて平和を創り出すための不可欠の前提である。
ところで、日本と同じように重い過去を克服しなければならなかったドイツの場合はどうであったか。日本と違って戦後すぐ、1945年の10月19日に、早くも「シュトウットガルト罪責宣言」が発表されている。原動力になったのは、戦時中ナチに抵抗した「告白教会」の人々である(因みに、日本でもドイツでも、本当はあの戦争について責任を認めて真っ先に罪を告白しなければならない人々は何もせず、むしろ抵抗した人々が罪責を告白したというのは、興味ある事実である)。
ドイツでは、告白教会の抵抗を先頭に立って指導し、そのために1937年から敗戦までの8年間をダハウの獄につながれたマルテイン・ニーメラー牧師があの「罪責宣言」の起草に関与したが、その際、彼を動かしていたのは、「告白教会の抵抗が徹底していなかったことの悔い改め」であった。その頃、彼はこう語ったことがある。
「ナチスの責任を問うだけでは十分ではない。教会は自らの罪を告白しなければなりません。もし教会が、本当に信仰によって生きるキリスト者から成り立っていたならば、ナチスはあれほどの不正を行うことができたでしょうか」。
ここに、「シュトウットガルト罪責宣言」の深い意味がある。だが、残念なことに、これが起草委員会の中で論議されて行く中で、ニーメラーの意図は次第に角の取れたものに変えられた。一番大切な部分が「言い訳がましい比較級」で表現される。
「大いなる痛みをもって我々は言う。我々によって終わりなき苦しみが多くの諸国民・諸国家の上にもたらされた。我々は今、…全教会の名において明らかに告白する。確かに我々は、長い年月の間、ナチズムの暴力統治の中に恐るべき仕方で表現されたところの精神に対抗して、イエス・キリストの御名において戦っては来た。しかし、我々は自らを告発する。我々はもっと大胆に告白せず、もっと真実に祈らず、もっと喜ばしく信ぜず、もっと熱く愛することをしなかった」。
だが、教会が真実に罪を告白することが大切だ。聖書の中で我々の心を打ち、歴史を動かす力となっているのは、常にこのような告白である(1ヨハネ1,8-9)。これこそ、我々にとって常に「新しい革袋」ではないか。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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