「神の働かれる『余地』」ヨハネ2:1-11 2022/01/16 中村吉基

イザヤ書 62:1-5;ヨハネによる福音書 2:1-11

今日私たちに届けられましたヨハネによる福音書2章の記事は主イエスの公生活における最初の奇跡が行われた時のこととして知られています。ガリラヤのカナというところで婚礼があり、その場で主イエスが水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。主イエスだけではなく、主イエスの母マリアも、弟子たちもその披露宴に招かれていたことが記されています。宴たけなわになったころ、準備されていたぶどう酒が飲み尽くされてなくなりかけていました。せっかくの披露宴のぶどう酒がなくなってしまっては、おめでたい席の途上で、結婚した2人を祝うパーティーの場が白けてしまうかもしれませんでした。パーティーのお手伝いをしていた母マリアは主イエスに神の子としての力を顕して、この窮地を切り抜けさせてくれるように頼みました。3節のところから読んでみましょう。

ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

主イエスの返事は、何か冷たい感じがします。私は中学生の時にここを読んで、主イエスのそっけない返答ぶりに興ざめしてしまったことがありました。「婦人」という言葉は、最近では使われなくなりました。女偏に箒と書くことで、「箒をもった女」というのが差別的な意味が含まれることで段々と使われなくなってきましたので、この箇所も「女性よ」と訳すべきかも知れません。実際に2018年に出された「聖書協会共同訳」では「女よ」となっています。

しかし、この「婦人よ」という呼びかけは肉親に使う言葉ではありません。尊敬を込めてこう呼ぶのです。主イエスが十字架にお架かりになって亡くなる前にも母マリアに向かって十字架上から弟子たちを指さして、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19:26)と主イエスが亡くなった後には弟子たちの母となられるように遺言しています。これも後に主イエスを信じる人びとの群れの中でマリアが特別な役割を担っていく人物として「婦人よ」と言われています。また「わたしの時はまだ来ていません」と救いのわざはまだ始まっていないことを告げるのですが、母マリアは主イエスが自分の願いを聞き入れてくれるだろうという確信があります。

5節のところで母は主イエスの指示に従うように召し使いに命じました。そして主イエスは6つある水がめに水をたっぷりと満たさせてパーティーの世話役のところへ運んでもらいました。6節によればその水がめはひとつ当たり「2ないし3メトレテス」が入ったと言います。1メトレテスは約39リットルです。7節で主イエスが「水がめに水をいっぱい入れなさい」と仰せになっていますが、この7節の「水がめ」は複数形になっていますので、6つの水がめにすべて水が入れられたことを考えると全部で600リットルになります。私たちが買うようなワインの瓶は750ミリリットル入りですから約133本のワインということになります。余談はさておき、主イエスがその水をぶどう酒に変えたことによって、しかも上等のぶどう酒とあります! そしてパーティーは無事に続けられていきました。

上等のぶどう酒が与えられました。主イエスは愛する人たちに上等のぶどう酒を惜しみなく133本もお与えになる。残念ながら今日の箇所にはこのパーティーの参加人数などどのくらいの規模であったか記されていません。しかし最初のぶどう酒が飲み干されようとし、そして今度また多くのぶどう酒が振る舞われようとしているのですから、かなりの人数であったことが伺えます。愛する者に良いものを与えるのは天地を造られた神の心と同じです。

そして神が私たちに与えられた最上の贈り物はイエス・キリストです。主イエスが私たちの世界に人間の姿をとって来られたことによって、まずいぶどう酒が美味しいぶどう酒に変えられたかのように世界は変えられた。新しいいのち、新しい生き方が示されました。喜び、恵み、人と人との潤滑油のような潤い、そして私たちは主イエスを信じるだけで完全な救いに入れられることが約束されているのです。

今日の箇所の最後の11節ですが、

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

とあります。婚礼のパーティーで水がぶどう酒に変わったことは、確かに「奇跡」と呼ばれるものでしょう。そこに私たちが同席していたならば今までに体験したこともない驚きを隠せないでしょう。しかし、ぶどう酒がたくさん満たされたことが素晴らしいのではないのです。ヨハネによる福音書の執筆者はこの物語の最後にこの奇跡は主イエスの栄光をあらわすためであったと11節で告げているのです。

「教会」という言葉のもともとの語源となった言葉(エクレシア)は「神に呼び集められた人びとの群れ」です。教会は神が造ってくださった群れ、集いです。そして教会の中心は神です。ですから教会とは神の「願い」が実現されていく場なのです。神の教会、イエス・キリストの教会である私たちの教会はその栄光をあらわす教会にならなくてはなりません。

ですから教会を私たちの思いだけでいっぱいにしては、神が働かれる余地がありません。私たちの教会に、私たち一人ひとりの生活の場において神の栄光が顕されるように、神が働かれる「余地」をつくっておきましょう。私たちの思いだけで水がめをいっぱいにしないようにしたいものです。

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