「小さな事に忠実な者」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
2000・5・7

「小さな事に忠実な者」

村上 伸
レビ記 25,35-38 ; ルカ福音書 16, 1-3

この譬えはドラマのようである。舞台には先ず、ずる賢い管理人が登場する。彼は、遠く離れた所に住んでいる主人(不在地主?) の財産を管理する責任を委ねられているが、主人が傍にいないのをいいことに、その財産を「無駄使い」していたらしい(1節)。「無駄使い」とは、今日の「放漫経営」か、「特別背任」に当たるであろう。

ところが、告げ口をする人があって事が露見し、この管理人は主人に呼びつけられる。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけには行かない」(2節) と、きつく説明を要求された上に、解雇を通告される。ウマみのある地位を失う破目になったのである。

青くなった彼は、忙しく頭を回転させる。その思考過程が、「独り言」として舞台で語られ、観客である我々には、彼の心中が手に取るように分かる。「どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」(3節)。つまり、いまさら肉体労働をする体力もないし、物乞いに身を落とすのもプライドが許さない、というわけだ。

その時、名案を考えつく。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」(4節)。今の内に借り手に恩を着せて、「天下り先」を確保しておこうというわけである。

彼は決断し、直ちにそれを行動に移す。後に主人が呆れて「なんと抜け目ないやり方だろう」と感嘆した程、鮮やかに素早く行動した。借り手が一人一人呼ばれて、順番に「わたしの主人にいくら借りがあるのか」(5節)と尋ねられる。最初の人は、「油百バトス」と答えた(6)。「バトス」とは、液体を量る時の単位で、1バトスは約40リットルという。管理人は100バトスとある証文を、50バトスと書き直させる。

次に呼ばれた人が借りていたのは「小麦百コロス」(7)だった。「コロス」は、穀物などを量る時の単位で、100コロスは約4万リットルに当たる。かなりの量だ。これも同じような手口で、80コロスに改竄する。

注解書はこの点について、「管理人が受け取る筈の手数料を諦めたのではないか」という解釈があることを紹介しているが、もう一つの解釈があって、それは「利子分をカットしてやった」というものだ。この方が真相に近いのではないか。

さっき読んだレビ記には、金や食糧を貸す場合、貧しい相手から利息を取ってはならないと書かれている。それなのに、主人はこれまで、小麦の場合でも25%,油に至っては実に100%という、法外に高い利息を取る方針でやってきた。これは律法の精神に背いたやり方だから、その利子相当分を全額負けてやったからといって、少なくとも建前上は非難できない。このように、レビ記の掟を「逆手にとって」管理人は帳簿を操作し、主人の財産には手をつけずに、しかも借り手に恩を着せることができた、というわけである。主人が舌を巻いて、「(敵ながらあっぱれな奴だ、)抜け目のないやり方だ」とほめたのは、このためではなかったか。

ドラマはここで幕となり、それに「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9)という教訓が付け加えられる。

「悪党(ピカレスク)小説」というものがある。16世紀のスペインで始まったらしい。下層階級出身の詐欺師などが主人公になって、さまざまな事件を引き起こす顛末を面白可笑しく描いた、一種の社会風刺小説である。今日のこの譬えは、「悪党」とは言えないが、日常生活のどこにでも見られるずる賢い小役人を登場させ、あまり立派とは言えない生き方を小気味良く、生き生きと描いている。しかも、ほとんど「肯定的な」評価が与えられる。「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8a)とか、「この世の子らは光の子らよりも賢くふるまっている」(8b)というのがそれだ。

この点に、善良なクリスチャンは先ず戸惑いを覚えるであろう。一体、この譬えはどう受け取ったらよいのか?

 

ここで、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9a)という不思議な言葉に注目したい。佐藤訳では単純に「不義のマモン」である。イエスが日常使っていたアラム語では、「富」は「マモン」という。「不義の」と言われるわけは、この世のものは神に逆らうという考えが根底にあるからである。すると、「不義のマモン」とは、この世で我々が手にする富、もしくは、我々がこの世で関わる経済活動のことになろう。

そこには確かに「神に逆らう」面がある。今日の譬えでも、管理人が職権を濫用して主人の財産を浪費する。その主人も、法外な利息を取っている。証書を改竄して貰った借り手だって、こういう話にはニヤニヤしながらすぐ乗ってくる。我が国で日常行われている背任・横領・談合・詐欺の類いは言うまでもない。「神と富とに(同時に)仕えることはできない」(13)というのは本当である。

だが、この譬えは、この世の富や経済活動そのものを「神に逆らうもの」として丸ごと否定してはいない。これが大切な点だ。そもそも聖書は、神とこの世とを対立させてこの世的なものを全部否定したりはしないのだ。神はこの世を愛される。

この世の富や経済活動は、永遠の神と比べれば「ごく小さな事」(10)に過ぎないが、これにも「究極以前のもの」(ボンヘッファー)としての相対的な意味がある。それを忠実に生かし、賢く使うことが重要である。「友達を作る」(9)とは、そういうことだ。それは、「永遠の住まいに迎えられる」(9)という大きな事を遥かに望みながら、この世のことにも忠実であることを意味する。→債務帳消しキャンペーン。



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