「あなたがたに平和があるように」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
2000・4・30

「あなたがたに平和があるように」

村上 伸
出エジプト記 3,1-12 ; ルカ福音書 24, 36-49

弟子たちが集まって、イエスの十字架上での死について、三日目の朝墓が空っぽになっていたことや、あの二人の弟子がエマオに向かう途上で経験したことなどについて、まだどう受け止めたら良いか分からないままに、「話していた」 (36)。この「話していた」という短い言葉に、我々は彼らの困惑を感じ取るであろう。すると突然、その真ん中に復活したイエスが現われる。

恐らく、我々は弟子たちとは少し違った意味で「心に疑いを起こす」(38)のではないか。弟子たちの場合は、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37)が、我々はその現場にいたわけではないから、もう少し単純に、「これは一体、どういうことなのか。そんなことがあるものだろうか」と疑問を感じるだろう。

死んだ人が幽霊になって現われるという話は、よく聞く。私は、残念ながらまだお目にかかったことがないが、そういった話は、古今東西を問わず多くある。「ハムレット」のお父さんも亡霊になって現われた。「そのたぐいか」と考える人もいるかもしれないが、ここで現われたイエスは、はっきりと「私は亡霊ではない」と否定し、その証拠のように「手と足をお見せになり」(40)、さらに、焼いた魚を「彼らの前で食べられた」(42)という。

この「現象」を、現代に生きる我々が歴史学的に、あるいは心理学的に解明しようと思っても、多分、それは無理だろう。そもそもこの話は、起こった事実の単純な「記録」とか「報告」とかいったものではない。イエスの死後50年位たってから、その後伝えられた種々の伝承や解釈を取り入れ、しかも周囲の新しい状況に対応するという意図を持ってルカが書いたものだから、二重、三重にフィルターがかかっている。

我々にできることは、ルカがこういう記事を書いた、その背景にあるいくつかの流れをできる限り知って、そこから、この物語の持つ意味を探り出すことであろう。私は、この方向でいくつかのことを明らかにしたいと思う。

 

ルカはここで、イエスに、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編(=旧約聖書)に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(44)と語らせている。先ず、この点に注意したい。つまりルカは、旧約聖書の伝統に立ってこの福音書を書いているのである。そういう前提なしに、彼個人の自由な思い付きに基づいて書いたわけではない。今日の、「復活者イエスの顕現」という物語も同様だ。

旧約聖書の中で、神は色々な形で顕現する。さっき読んだ出エジプト記 3章1節以下もその一つで、そこでは神が、「燃えているのに燃え尽きない柴」の形でモーセに現れた。他にもこういった顕現物語は珍しくないが、それらに共通する特徴は、「現われた神が、それを見た者にご自身を認識させ、そして彼に、イスラエル民族全体に関わる使命を与える」ということである。モーセの場合、神はいかなる神であるかということが、先ず知らされた。「わたしはある」と言う者。マルチン・ブーバーによれば、どのように困難な事態の中にも、「死の陰の谷」にさえも、神は不在なのではない。神は生きている。どのような状況の中でも、「ここに私はいる」と言う。

この神認識に続いて彼に与えられた使命は、エジプトで抑圧されているイスラエル民族を解放することであった。これは、あの神認識と本質的に同じ内容を持つ。すなわち、抑圧と絶望と死から解放する。命を与える。

 

ルカは、復活者イエスの顕現の物語を、同じ特徴を備えたものとして書いている。

先ず、イエスはこの顕現によって弟子たちにご自分を認識させた。

「弟子たちの真ん中に立った」(36)ということは、生前のイエスが常に弟子たちの真ん中にいて苦労を共にしていたように、これからも共にいる、ということである。「手と足を見せた」(40)というのは、十字架につけられた時の釘の傷跡であろう。あなたがたを愛するために苦しみ・命を捧げた私が、この後も変わることなくあなたがたと共にいる。「何か食べ物があるか」(41)と、イエスの方から食べ物を要求したということも、生前のイエスが神の国の祝福を先取りするようにして弟子たちとしばしば食事を共にしたことを想起させる。

ガリラヤで、あるいはエルサレムで、「まだあなたがたと一緒にいた頃」(44)、弟子たちに惜しみなく愛を注いだイエス。彼らのために命を捨てたイエス。この愛と真実は継続している。

復活とは、「イエスの事柄が継続するということだ」とW.マルクスセンは言ったが、正にそうだ。イエスの愛。彼の真実。すべての人を真に生かす「いのちのメッセージ」。これは、十字架の死をもって終わりはしない。今も続いている。今日の顕現物語は、この継続性を確認しているのである。「まさしくわたしだ」(39)という言葉も、その意味である。このような意味を込めて、復活者イエスは、「あなたがたに平和があるように」(36)と言われたのだ。

さて、自己を現わした復活者イエスは、弟子たちに使命を与える。それは、「罪の赦しを得させる悔い改め」(47)を宣教することであった。罪は死をもたらすものである。従って「罪の赦し」とは、死の力からの解放であり、死の克服である。

死に打ち勝った復活者イエスは、弟子たちに、そして時代を超えて我々の教会にも、他者を生かす命の宣教を委ねられた。「あらゆる国の人々に」(47)いのちのメッセージを語り、その証人となること。これこそ、教会の使命であろう。



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