イエスが十字架上で死んでから三日目に、二人の弟子たちがエルサレムの西北12kmのところにあるエマオという村に向かって歩いていた。歩きながら、二人はこの数日間にエルサレムで起こったイエスの処刑という出来事について「話し合い、論じ合って」(14)いたが、いつの間にか一人の人が道連れになった。この段階では、二人はまだ、それがイエスだとは気づかない。その人は、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17)と口を挟んできた。多分二人は、あの事件をどう受け止めたら良いか分からず、大声で「ああだ、こうだ」とやり合っていたのだろう。夢中になっていて、その人が質問してくるまでは気にも留めていなかったのだ。
二人の内の一人、クレオパという人が、その見知らぬ人物の質問に答えて、
「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていました」(19-21)、
と説明する。
しかもこの事件には続きがあって、その事があってから三日目の今朝、朝早く女性の弟子たちが亡骸の腐敗を防ぐための香料を塗ろうとして墓に行くと、墓は空っぽで、「輝く衣を着た二人の人が」(4)現れて、「イエスは生きておられる」(6)と告げた、というのである。
以上が、クレオパの話の内容だが、その時二人は「暗い顔をして立ち止まった」(17)。この点に注目したい。何故、彼らは暗い顔をしたのか。
自分たちが「イスラエルを解放して下さる」と望みをかけていたあの方が、何らなす所なく十字架上で殺されてしまった。その上に、今度は墓が空っぽになっていたという。一体、何のことなのか、わけが分からない。二人は困惑の極みにあった。それが、「暗い顔をしていた」理由であろう。それは、単なる死別の悲しみではない。要するに、二人は納得できなかったのだ。
1954年、台風15号が北海道を襲い、連絡船「洞爺丸」が沈んで1155名の人が犠牲になったが、偶々乗客の中に二人のアメリカ人宣教師がいて、お年寄りや子供たちを助けるために自分たちの救命胴衣を着けさせたりしている内に逃げ遅れて死んだ。その知らせを聞いた時、若い方の宣教師の夫人は、「神様に質問があります」と言ったそうである。納得できなかったのであろう。そういう時、人は暗い表情をする。
まして、イエスのように「正しく・良い方」が、この世に充満している自己絶対化や鈍感さや、怠慢・不真実・裏切り・無責任・付和雷同といった、もろもろの「正しからざるもの」によって嘲られ・唾をかけられ・殴られ・十字架に釘付けにされ・さらし者にされた挙げ句、絶望の叫びを挙げて死ななければならなかったのだ。弟子たちには、このことが納得できなかった。どうして、あのような高貴な方がこれほどの苦しみに遭わなければならなかったのか。
二人が暗い顔をして立ち止まったのは、このためである。
普通、我々は「正しい者は最後には必ず成功する」と考える。逆に言うと、「成功したかどうかで、その人の正しさが実証される」というわけだ。その点から見ると、イエスの30年の生涯は成功とは言えない。弟子たちの目から見ると、それは失敗であったと言わざるを得ない。そこで、彼らは暗い顔をしていたのである。
だが、道連れになったその人は、この二人の弟子たちを「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(25)と叱りつけた。ここが、今日の話のポイントだ。そしてその人は、常識では考えられないことを言う。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(26)。
「はずだった」という新共同訳の訳し方は少し弱い。ここは、「必ず…ねばならなかった」という意味である。神は、この世界を救うが、そのためには必ずメシアが、神の子が、真実な預言者たちが苦しまなければならない。これは、神の目から見て必然である。神の必然性!これが、旧約聖書の最も深い思想であって、イエスは、それを正面から受け止めたのである。
ここには、「成功」をすべての尺度と考える考え方とは違った、全く新しい真実が示されている。イザヤ書53章に示されているように、旧約の真実な預言者たちは必ず苦しまなければならなかった。神から遣わされたイエスも、最後はああいう形で苦しんで死んで行かなければならなかった。→ルカ 13章33節
この世的に見て決して「成功者」とは言えない預言者たち。この世によって抹殺されてしまったイエス。そのような「失敗」の徴である十字架。だが、この中には、最も深い形で神の意志が現れている。「メシアは必ずこういう苦しみを受けて、栄光に入る」のである。
復活とは、真実のため・愛のために苦しむという生き方、この世では決して「成功」と認められることのない生き方を、神が最終的に認め、肯定しておられるという高らかな宣言である。十字架が最後なのではない。死が最後の言葉なのではない。一見、死が支配しているように見える所にも、神の命が働いている。そのことを信じよう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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