「十字架につけられたイエス」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
2000・4・16

「十字架につけられたイエス」

村上 伸
イザヤ書 50,4-9 ; ルカ福音書 23, 26-43

イエスは、神の国の福音を宣教し始めた当初から、「律法原理主義」的なファリサイ派や律法学者たちとは違って、律法を、出会う一人一人の人間を生かす方向で解釈したために却って憎しみを買った。彼らは律法に違反していると言ってイエスを非難し、「罪人の仲間だ」(7,34)と攻撃した。そして、遂には「生かしては置けない」人物というレッテルを貼った。この彼らの殺意が今、イエスに向かって迸ろうとしている。

ルカの「受苦物語」を順に追って行くと、イエスは弟子たちに裏切られ(22,47-62)、逮捕されて、宗教裁判にかけられる(22,66以下)。ローマ総督ピラトの三度にわたる弁護にもかかわらず(23,1以下)、死刑の判決を受ける(23,13以下)。当時、処刑される者は、自分がこれから釘で打ち付けられることになる十字架を背負って処刑場迄歩いて行かなければならなかった。ちょうど、アウシュヴィッツでユダヤ人が自分たちのために穴を掘ってその前で殺されたように。だが、日夜心身を労して体力の限界に達していたイエスは、その道行きに耐えられない。偶々通りかかったキレネ人シモンが代わって十字架を負わされた(23,26)。イエスに好意を抱いている民衆と、嘆き悲しむ婦人たちが、大きな群れを成してイエスの後について行く(23,27)。しかし、主だった弟子たちの姿は、もはやその場には見られない。

悲しむ婦人たちに向かってイエスは、ホセア書10,8を引用しながら、ご自分のためにというよりは、むしろ、このような罪を犯してしまったユダヤ民族のために嘆くがいい、と呼びかけ(23,28)、「生の木」(無罪のイエス)でさえこのように苦しむのなら、「枯れた木」(罪のないイエスをこのように苦しめることによって精神的に枯れてしまったユダヤ人)に対する神の裁きはどれほど厳しいものになるだろう、と嘆く(31)。

イエスが「されこうべ」という不吉な名前の場所で十字架につけられた時、同時に二人の犯罪人も、彼の右と左に磔にされた(33)。ローマ帝国では、何人もの罪人をまとめて処刑するのが通例だったのである。

その時イエスは、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです」(34)と祈った、とルカは記している。新共同訳に[ ]が付けられているのは、多くの写本にはこれが欠けているからだ。だがこの祈りは、敵をも愛するようにと命じられたイエスにはまことに相応しい。

しかし、このように祈ったイエスを、人々は嘲笑う(35)。詩22,19に書いてある通りの場面が出現して、兵士たちは「くじを引いて服を分け合う」(34)。そして、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とか、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」といった嘲り・侮辱の言葉が次々に苦しむイエスに向かって投げつけられる(35以下)。終いには、一緒に処刑された二人の犯罪者の一人さえも、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と、悪態を吐く(39)。こういう中で、イエスはその高貴な一生の最期を迎えたのであった。

 

これは、なんという物語だろう!

生きている人間よりも律法の条文を優先させて、その自分たちの律法解釈を絶対に正しいといって譲らないファリサイ派・律法学者たち。それを原理主義的に守ることが大切だと信じていたユダヤ人社会。イエスがオリーブ山で苦しみ悶え、血のような汗を滴らせて祈っていたその時にも、眠りこけていた弟子たち。友情と信頼のしるしである接吻を目印にしてイエスを売り渡したユダ。「自分はイエスとは関係がない」と三度も否定して、イエスの信頼を裏切ったペトロ。イエスのような人を殺すことが正しくないと気づいていながら、助ける努力を途中で諦めて責任を放棄した政治的責任者ピラト。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ心ない群衆。「トラの威を借る狐」のように、イエスを殴ったり侮辱したりした兵士たち

これらのものが、寄ってたかってイエスのような真実な方を抹殺してしまった。これが我々の世界なのである。イエスは「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」(28)と言ったが、この受苦物語を読むと、我々は、今の世界とのあまりの類似に心を揺さぶられ、嘆かないわけには行かない。

自己絶対化・鈍感さ・怠慢・裏切り・無責任・尻馬に乗る付和雷同―――これらの内、一つとして我々の社会に存在しないものがあるだろうか。あの時から今に至るまで、これらの諸要素がくり返し真実なものを抹殺している

→映画「グリーンマイル」

 

我々の世界を深く蝕んでいる根本的な問題がある。それは罪である。イエスは、自ら十字架につけられることによって、この罪を明るみに出している。「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」。

泣かなければならない。今、我々の社会を覆っているのは、本当に泣くべき時に泣かない、いや、泣けない精神である。「悲しむ能力の欠如」(ミッチャーリッヒ)。

しかし、「泣いていいのだよ」と言われて不思議な慰めを感じたという経験を持つ人は多いであろう。それは、深い受容から出た言葉だからだ。イエスが「泣け」と言うのは、すべての人の罪を引き受けて苦しむ愛があるからに他ならない。



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