先日、創世記1章から11章はそのまま信じていないというクリスチャンに出会いました。聖書のある部分は信じているが、ある部分は信じていない、という人でもクリスチャンなのですか。
確かに、「聖書のある部分は信じていない」とか、「奇跡は信じない」という人がいます。この人たちは、いわゆる「自由主義神学」の影響を受けている人たちです。そこで、自由主義神学について触れてみる必要があります。いつものように、3つ申し上げます。
1番目に、自由主義神学は、人間の理性を重視します。
もっと言いますと、自由主義神学者は、現代科学や現代思想と聖書を「調和」させようとしているのです。その前提にあるのが、「科学的知識こそ誤りのないもので、聖書には誤りがある」という考え方です。しかし、もし聖書に誤りがあるなら、聖書の教える救いは信頼性のないものになってしまいます。そこに自由主義神学の大きな問題があるわけです。
2番目に、自由主義神学は、聖書に記録された奇跡を否定します。
自由主義神学者が否定する代表的な奇跡を、3つ挙げてみます。
「創世記の天地創造の記事」「イエスの処女降誕」「イエスの復活」以上のような奇跡を信じないのが、自由主義神学の特徴です。しかし、もし聖書の奇跡を否定するなら、それはキリスト教ではなくなります。なぜなら、キリスト教はイエスの復活という「歴史的事実」の上に立っている信仰だからです。
3番目に、自由主義神学は、永遠の滅びからの救いよりも、隣人愛を強調します。
彼らは、「罪のさばき」、「永遠の滅び」などの教えは、昔の人たちが考えていたことで、無視してもいいのだと教えます。それよりは、今生きているこの地上において、「人としていかに隣人愛に生きるか」を模索することのほうがより重要だと考えます。そこでは、イエスは単なる「道徳の教師」とみなされます。
しかし皆さん、イエスという方は、「自分は神だ」と宣言されたのです。もしイエスが神だというのが嘘だとしたら、イエスは道徳の教師ではあり得ないということになります。道徳の教師というのは、嘘は言わないはずですから。つまり、イエスについてどのように考えたとしても、イエスが道徳の教師だという選択肢はないということです。イエスは、文字通り「神の子」であるか、あるいは「嘘つき」であるか、あるいは、「誇大妄想狂」であるか、そのいずれかであって、決して道徳の教師ではないということです。
このように見てくると、結論的には、自由主義神学に立つキリスト教は、聖書的キリスト教ではないということが言えます。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」(ヨハネの福音書14:6)
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(テモテへの手紙第二3:16)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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