最近プロテスタントの教会に通い始めた者です。アクセサリーとして、シンプルな十字架のネックレスを付けています。今現在、さまざまなファッションに十字架は取り入れられていますが、普段から十字架を身に着けているというのは、問題がありますでしょうか。
クリスチャンでなくても、十字架をアクセサリーにしている人はたくさんおられます。このテーマについて考えることは、自分の信仰を吟味するよい機会となります。いつものように3つ申し上げます。
1番目に、十字架をアクセサリーにするかどうかは、各人が自分で決めるべき問題です。
十字架というのは、ご存知の通り、元々は死刑の道具でした。ですから、時々「十字架を付けるというのは、胸に電気いすやギロチンをぶら下げているようなものだ」というような言い方をするわけです。しかし、この言い方は50点です。半分は当たっていますが、半分は間違っています。その理由は、クリスチャンが十字架を身に付け始めたのは、十字架刑が廃止されて以降の話だからです。その時代には、十字架の意味がもう変わっていたわけです。ですから、死刑の道具をぶら下げているわけではないのです。十字架は、愛、赦し、守りなどを象徴するシンボルとなりました。
以上のような背景がありますので、十字架は自分で判断して付ければいいのです。十字架を付けない人は、付けている人を見ても批判すべきではありません。
しかし2番目に、十字架をアクセサリーにすることが問題となる場合があります。
どういう場合なのでしょうか。
1つは、「自分の外見がどう見えているか」にしか関心がない場合です。つまり、格好いいかどうか、そればかりを気にしている場合です。その人は、外見だけに心を奪われ、心の在り方に関心が向いていないわけです。
次に問題なのは、十字架が偶像になる場合です。例えば、十字架を崇拝するような心理状態になっている場合は、危険です。さらに、「十字架を付けていれば何をしても事故には遭わない」とか、「車の前に十字架を付けていれば無謀運転したって大丈夫だよ」といった意識もまた問題です。
3番目に、十字架をアクセサリーとすることが賞賛に値する場合があります。
それは、キリストの「犠牲的な愛」を確認するために十字架を付けている場合です。あるいは、自らの心を吟味し、「神様に従順に歩むこと」を再確認している場合です。さらに、キリストの愛に生きる決心をし、隣人に愛を示そうとする場合です。
結論としては、自分の内面を顧みながら十字架を身に付けるなら、それはよいことだと言えます。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(ペテロの手紙第一2:24)
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネの福音書13:34)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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