「オネシモーー役に立つ者へ」フィレモン1~25 中村吉基

申命記30:15-20; フィレモンへの手紙1-25

申命記30:15-20; フィレモンへの手紙1-25

「フィレモンへの手紙」は、たったの25節からなる手紙です。「たった」と言いましたけれども、私たちが普段書く手紙もこのような長さかもしれません。パウロの手紙で今残っているものの中で唯一個人に宛てた手紙です。短い手紙です。ここに書かれている内容は、かつて問題を起こした奴隷のオネシモをどうしたら良いかということについて書かれています。きわめて個人的な問題について記されていますが、その背景にはキリスト者が教会のメンバーとしてどのように行動して行ったら良いかという視点で記されてあります。フィレモンという人はパウロの宣教のパートナーでもあり、「家の教会」の主宰者であったようです。その教会に属する人たちが、パウロのしたためたこの手紙が朗読されるのを聴くということも念頭に置いていたようです。

最初のキリスト者たちは、シナゴーグと呼ばれるユダヤ教の会堂を使って主イエスの福音の教えを伝え始めました。しかしユダヤ教徒とキリスト者との違いが明らかになっていくうちに、会堂で迫害されるようになり、信徒たちの家で礼拝を捧げるようになりました。フィレモンもそのようにして自宅を開放していたのでしょう。彼はコロサイの町に住んでいたようです。コロサイというのは小アジア、今のトルコの西の方です。教会の集会が出来るくらいの大きな家に住んでいたのでしょう。「姉妹アフィア」とあるのはフィレモンの妻ではないか、また「戦友アルキポ」とは彼の息子のことではないか、などと推測されています。いずれにしてもパウロは「わたしたちの愛する協力者フィレモン」と記しています。

パウロがこの手紙が書いた時に、ローマの牢獄に入れられたと言われています。キリスト者は今申しましたようにユダヤ教内部の反体制グループと見なされて、リーダーであるパウロはひどい弾圧に何度も遭い、そして投獄されていました。エフェソとローマではそれぞれ約3年間獄中にありました。この6年にもわたる獄中生活の中で、彼の4通の手紙をしたためました。エフェソの牢獄から書き送った「フィリピの信徒への手紙」、ローマの牢獄から書き送ったのが、「コロサイの信徒への手紙」「エフェソの信徒への手紙」そしてこの「フィレモンへの手紙」です。

これらの4つの手紙は「獄中書簡」と呼ばれています。この4つの書簡の個人訳をされた本田哲郎神父はこう言っています。

「投獄され、死刑も覚悟していたらしいパウロは、神の子キリストのことを思うとき、かつて出会った「復活のキリスト」と共に、かならず「受難のキリスト」を思い浮かべていたにちがいありません。キリストと一体のものとして生きるということは、キリストの受難をわが身に引き受けて生きることにほかならないと、腹をくくったようです」(『パウロの「獄中書簡」』より)。

さて、この手紙の核心に、パウロは「頼みがあるのです」とフィレモンに切り出します。それはオネシモという人のことでのとりなしでした。オネシモはフィレモン家の奴隷でしたが、フィレモンの財産を盗んで逃げだし、その後ローマで、パウロに出会い、罪を悔いて、キリストを信じる者となり、今では熱心にパウロの右腕として、奉仕者として生きていました。

オネシモは、かつてはフィレモン家の奴隷でしたが、パウロのもとで救われたオネシモは奴隷ではなく、キリストにある兄弟として、オネシモを受け入れて欲しい、それがパウロの願いでした。主イエスの十字架によってパウロもフィレモンも赦されたように、今度はフィレモンもオネシモを赦して欲しいという「頼み」であったわけです。

さてフィレモンとパウロはどのように出会ったのでしょうか。そのことを聖書は詳らかに記していませんが、フィレモンに洗礼を授け、信仰の指導をしてきたのは他でもないパウロでした。19節にある「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは……」という言葉から分かります。他の訳では「あなたの私に対する借りについては、とやかく言いますまい。あなたのたましいが救われたのも、私の助けがあったからこそ、なのですが……」。フィレモンがキリストを信じ、その救いに導かれたのはパウロの宣教のおかげだったということです。そのパウロが頭を下げて、「わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください」と言うのです。

フィレモンの先生であるパウロがどうしてこのようにして頭を下げるのでしょうか。その理由は8、9節に記されてあります。「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」。パウロは、先生としてフィレモンに命令をしてもよいかもしれない。しかしそうするのではない。「愛に訴えてお願い」をするのだ。頭ごなしに「命令」するのではなく、頭を下げて「お願い」するのだ、と言うのです。

当時の獄中は、私たちが想像するよりもはるかに自由であったようです。さまざまな人が出入りをしてパウロの身の周りの世話をしました。パウロも囚われの身でありながら宣教することができましたし、こうして手紙を書くこともできました。オネシモもパウロのもとに身を寄せ、いつしか囚人となっているパウロから福音を教えの手ほどきをされて、キリスト者になりました。

パウロはこう言います。「本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが」。けれども今、オネシモをフィレモンのもとに帰そうとしています。「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します」。そして、「だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください」とまで言います。オネシモがコロサイの町に帰ったならば、一人の信仰者として再び共同体に受け入れてほしい、パウロがこの手紙をしたためた最大の理由がこの17節に記されてあるわけです。

当時と今の私たちの生活とを比べて決定的に違うことは「奴隷制度」です。奴隷は主人の買「モノ」であり、もしも逃亡したら、時には殺されてしまうこともあったようです。

フィレモンとかつてそこから逃げ出したオネシモとの間にはそういう微妙な緊張関係が生まれているのを重々承知していて、パウロはオネシモをフィレモンのもとに送り帰そうとしているのです。そして、フィレモンに、再び彼を信仰の仲間として受け入れ直してほしい、という願いを手紙に記しています。

11節には「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」とあります。実は今日のメッセージのタイトルにも関係することですが、「オネシモ」という名前は「役に立つもの」という意味があります。けれども金を盗んでフィレモン家を飛び出してきたオネシモは、「何の役にも立たない」者でした。

時を経て、パウロのもとでキリスト者として生まれ変わった今となった今、彼はパウロのためにもフィレモンのためも役に立つ者となっている、と言っているのです。その「役に立つ者となった」とは、「ましな」人間になったということではありません。それは「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです」とパウロは言います。これは、キリストによって救われたオネシモが、パウロにもフィレモンにも同じキリスト者、愛する兄弟となったということです。

「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」。オネシモがキリスト者になったということは、かつて奴隷として主人に仕えていた者から、主人からすれば「財産」「モノ」であったのが、「一人の人間としても、「主を信じる者」としても、「愛する兄弟」となった。フィレモンとオネシモは、キリストを信じる信仰によって「=」(同等)となったのです。そのことをフィレモンの心に刻んで欲しい、とパウロは願っているのです。パウロが「善い行い」といってフィレモンに願っているのはまさにそのことなのです。

イエス・キリストは私たちの「仲介者」として、人間と人間を結んでくださる方です。人間は歴史の中で身分とか、いろいろな人が持つ「違い」から差別するという愚かな過ちを繰り返してきました。しかし、イエス・キリストに結ばれるならば、上から目線でも、下から目線でもなく、「=」イコールで結ばれる、キリストにある、愛するきょうだいとなることができるのです。

今からお話することは聖書の記述ではありません。伝承でありますけれども、オネシモはその後エフェソ教会の監督になったと言われています。そして、新約聖書の編集に携わって、この「フィレモンへの手紙」をその中に入れたとも言われています。かつて奴隷として逃亡したこともある「役に立たない」オネシモでした。しかし、キリストに出遇って彼は救われたのです。主イエスに出遇って彼は変えられました。神のご栄光あらわす器に変えられました。また人の役に立つ者へと完全に生まれ変わったのです。

宗教改革者マルティン・ルターは「私たちはみんなオネシモであった」と言いました。オネシモのような存在だった私たちに、さまざまな事柄を通して、キリストは近づいて来られた。そして私たちを救ってくださいました。私たちは神のものになり、愛するきょうだいの一人とされたのです。私たちも喜んで神と人に仕えるオネシモ(役に立つもの)になりましょう。

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