時代を見る目 201 信仰の落とし穴 [3] 御心を求めて

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

東後勝明
早稲田大学名誉教授

クリスチャンなら誰でも知っている祈りに「主の祈り」がある。その中にこういう一節がある。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」
ところが私たちが実際に祈るときはどうだろう。どうしても「こうしてください」「ああしてください」と自分の思いを祈ってしまう。
祈りとは一般に「自分の思いや願い」を神様に叶えてもらうために行うものだ。例えば病気の人は「どうぞ、私のこの病を癒してください」と祈る。その結果、祈りがきかれ癒されると、「やはり主はおられる!」「祈りはきかれた!」と心の底から感謝をすることができる。
しかし問題は癒されないときである。「どうして私のこの病を癒してくださらないのだろうか」「神様には何でもできるはずなのに」との思いが、頭をもたげてくる。やがて、信じていたつもりの神様も見えなくなり、「神などいないのでは」と思い始める。
そのうちうっかりすると、思いが叶うと神は存在し、叶わないと神はいないと思うようになり、なんとか神を味方につけ、自分の思いを遂げようとする。こうなると、「神様、神様」と言いながらも、いつのまにか自分の思いが中心となり、自分に都合のいい働きをする神様を追いかける。やがて人はこうして自分に不都合な神から離れ、即効性のあるいわゆる御利益宗教に走るようになる。多くの人がここでも足を取られる。しかし、私たちが信じるキリスト教の神様は、自分の思いが叶わないときも、病が癒されないときも、悲しみのどん底に喘ぐときも、まったく孤独と思われる陰府にいるようなときも、私たちと常に共におられる。
主は私たちを見捨てられない。見捨てるのは私たちではないだろうか。
あえて言えば、信仰を持ち、諸事万端が自分の思うようにうまくいくから心に平安が保たれるのではない。
私たちは、生きることも死ぬこともすべては主の御手の中にあり、一切が赦され、贖われ、救われていることに気づいたとき、はじめて真の心の平安が与えられるのではないか。

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