主イエスがこう言われました。「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(ヨハネ9:39)。「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ9:41)。
わたしは聖書のこの二箇所の言葉を読むたびに、疑問に感じます。「見える者は盲目な罪人になりますが、見えない者はかえって見える者になり、罪を持たなくなります。このことはどんな人の上に実現するのだろうか。主イエスのこの言葉をどのように理解すべきなのか」と。この疑問を解決するために、わたしは多くの牧師と長老に尋ねました。しかし、彼らは聖書の文字どおりの解釈しかできませんでした。彼らの言葉を聞いても、わたしは何のことだかさっぱり分かりませんでした。わたしは疑問を解消するため多くの霊的な著作も読みました。しかし答えを見つけ出すことはできませんでした。
しかしあるとき、偶然にわたしはある伝道者と出会いました。彼と交流することによって、わたしの心の中の長い間の疑問は解決されたのです。
当時、この兄弟は根気よくわたしの問題に答えてくれました。彼は次のように話しました。「わたしたちがこの言葉の中の真理を理解したいなら、主イエスが盲人を癒したということから話さなくてはなりません。聖書には、ある盲人が主イエスに癒されたと記されています。彼は肉眼では何も見えないが、良心が依然として存在し、霊的な目が依然として明るい人でした。当時、主イエスは伝道し、働き、多くのしるしを行われました。それはユダヤ全地にセンセーションを巻き起こしました。ある日、この盲人は幸いにして主イエスに出会いました。彼は主に対する信仰によって、主に彼の目が癒されるよう求めました。それで、主イエスは彼の願いをかなえてやり、その場で彼の目を癒し、彼の目が見えるようにされました。この盲人は主イエスの権威と力を身をもって体験したので、主イエスが神から来られた方であり、キリストだと確信しました。そして、彼は言いました。『生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです。』(ヨハネ9:32-33)。彼のこの言葉は聖書に記されていて、現在まで伝わっています。
主イエスが盲人を癒したことから分かるように、『神がこの世を裁く時、見えない者が見えるようにされる』という主イエスの言葉の中にある『見えない者』とは、主に癒された盲人のような人を指しています。病気にかかった病人が医者の治療を至急必要としているのと同じように、ひどくサタンに苦しめられた人は神の救いを切に望んでいます。彼らは自分が貧しく、哀れで、盲目で無知だと知っているので、光、真理の到来をいっそう渇望します。神が来て働かれる時、彼らは虚心に真理を求めることによって、神の出現と神のすばらしいみわざを見、神の働きの歩みについて行くことができました。それは主イエスが言われたとおりです。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:3)。『義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。』(マタイ5:6) 。『すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。』(マタイ7:8)。だから、虚心に神の出現、働きを求める人、神の声を聞き神につき従う人はみな神の救いを得ました。主イエスは彼らの罪を赦して、彼らは罪を持たなくなるであろうと言われました。
では、目が見えるが、罪人になった者は、どんな人を指しますか。実は、これらの人は、自分が何かを知り、何もかも分かると思っている人です。彼らはいつも自分の観念、想像によって神とその働きを判断します。彼らは神を畏れる心を持たず、虚心に真理を求めず、そのため神の啓きを得られません。これらの人の心は暗く、彼らこそが本当の盲人だと、神は思っておられます。例えば、主イエスが現れて働かれた時、神殿の中で尊大に振る舞っていた祭司長、律法学者、パリサイ人は自分は聖書を熟読したので、神に対して最も認識があると思っていましたが、かえって神に逆らう反キリストであることが明らかにされました。
目の見えない人と違って、目の見えるパリサイ人は受肉した主イエスを認識できませんでした。彼らは盲人よりもっとかわいそうで憎らしいです。当時、主イエスは働き、道を説き、多くのしるしや奇跡を行われました。それはユダヤ全地にセンセーションを巻き起こしました。そのため、多くの人は主イエスを信じ、彼の追随者になりました。しかし、パリサイ人は聖書の中の文字の教理と宗教的観念をかたくなに守っていました。彼らは、イエスの説かれた道がどんなに優れていても、どんなに実際的であっても、彼がメシアと呼ばれなければ、彼らは、権威、力のある主イエスの言葉、働きを自分の目で見て、心の中で恐れおののくけれど、主イエスがキリスト、メシアだと認めませんでした。これは、「それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず…』」(マコ4:12)という主イエスの言葉を成就しました。
パリサイ人は自分の観念と想像、自分の傲慢で独りよがりな本性によって葬り去られました。彼らは神が受肉して働いた時代に生きていたが、主イエスの働きと言葉を調べず、また狂おしげに主イエスを罪定めし、逆らいました。彼らは主イエスの働きを受け入れないだけでなく、また他人が主に立ち返るのを阻止しました。そのため、多くの臆病で定見のない民は彼らに惑わされ、コントロールされてしまって、真理の道を受け入れ、主の足跡に従う勇気を失ってしまい、しかもパリサイ人と一緒に神に逆らい、主イエスを十字架につけました。最終的に、この人たちは神に懲罰され、報復され、国の滅亡のつらさを味わいました。
主に対する信仰を持っている盲人と傲慢で独りよがりなパリサイ人とをこのように比べれば、なぜ主イエスが自分の目が見えると思う者を、目の見えない、罪を持つ人だと言うのかが分かりました。恵みの時代においても、世の終わりにおいても、自分が最も聖書を理解し、神を認識すると思っている人は傲慢な人です。彼が反省せず、虚心に真理を求めず、聖霊の働きと神の言葉、声に留意しないなら、彼は永遠に霊的に盲目な人であり、永遠に神の啓き導きを得ず、神の足跡に従うことがなく、永遠にサタンの権威の下に生きており、罪に縛られ、コントロールされます。」
この兄弟の言葉を聞いた後、わたしは非常にうれしくなりました。彼との交流によって得たものは、自分が主を信じてから得たものの中で、最も大きな収穫だと感じました。実は、主イエスの言っている盲人とは、目の見えない盲人を指すのではなく、神の言葉と働きを授かっても、神を認識したり、神の救いを受けたりすることができない人を指します。聖書に記されている、盲人とパリサイ人のそれぞれ異なった言動と結末は、神の義と信実を明らかにしました。
わたしは歴史の教訓を戒めとするべきです。そして、わたしは心の中で静かに自分にこう言い聞かせました。「世の終わりに主の再来を迎える上では、パリサイ人のように自分の観念と想像を守り、思い上がってはならず、賢い乙女のように神の声に留意し、虚心に真理を求めるべきです。そうしてこそ、神の足跡に従い、主の再来を迎え、天の国の中に携え上げられることができます」と。
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