「荒れ野に水が湧く」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

アドヴェント第二主日の説教テキストにはイザヤ書35章が選ばれている。「よろめく膝を強くせよ」(3)とか、「そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」(6)といった表現を読みながら、私は、先日(11月23日)81歳で天に召された「車椅子の詩人」・島崎光正さんのことを思わずにはいられなかった。

島崎さんは「二分せきつい症」という難病を持って生まれ、生涯、松葉杖や車椅子にたよらなければならなかった人である。11月26日に故郷の塩尻で行われた告別式には、車椅子の人々が大勢駆けつけたという。12月4日の朝日新聞夕刊には、学芸部の菅原記者が心をこめた追悼文を書いている。

私は、島崎さんには一度しかお目にかかったことはないが、この詩人に対して長年、心からの尊敬を抱いていた。最大の理由は、彼が実に言葉を大切にする人だったからである。彼の詩集『故園』(日本基督教団出版局、1970年)には、「言葉について」という作品があるが、それを読むとこのことが分かるであろう。全部を朗読する。

私の言葉が、私をむしり取る。
私の言葉の中には私の肝臓の一部や腸や爪が入っている
言葉は私自身なのだ
枝とか花とか愛とかいう文字に私は代えられる、まだ見たことのない衣裳部屋の中で。
形を失った私が君に問いかける
食事の模様やストーブのあんばいを。
そして私はうたう――
たそがれに咲いた桜や素直な目を持つ動物を見るたびに。
堪え切れなくなった魂が言葉に載って溢れ出る。
私の中の不断の愛と苦痛の堆肥!
あの中から明日も
言葉の蝶は飛立つだろう。
私を運ぶ
影の凍った牧場の方へ。」

このように言葉を大切にしたから、この詩人は寡作だった。彼は信州の厳しい自然の中で長い時間をかけて、「堪え切れなくなった魂が言葉に載って溢れ出る」まで、じっと言葉を育んでいた。だから、数多くは出来ない。質の高い、数少ない言葉だけが紡がれた。それが、読む者の胸を打つ。

今読んだ詩にも、「苦痛の堆肥」という言葉があるように、島崎さんは、自分の障害に苦しんでいた。「杖」という詩がある。

「神様
あなたは私の足をこんなにお作りになりました
まるで曲がった松の根っこのようです
何かの瘤のようです
近所の子供がよく訊ねます
火傷したのかい?
いたずらしたのかい?
いやいやと、私はいつも彼らに申します
神様、あなたがお作りになったのだと答える以外に方法が
ありません
私は悲しうございます」。

しかし、この悲しみは決して彼を卑屈にしなかった。この詩はこう続く。

「けれども、あなたは松葉杖をお貸しになり
私はそれを頼りに歩きます
…この杖は私にだけさずけたもうた
私にだけ、
だから名札をつけません」。

障害を持って生まれただけでなく、家庭的にも不幸だった彼は、「わが上には」という作品に、自らの不幸をこう歌っている。

「神様
あなたは私から父を奪われました。母を奪われました。
姉弟もお与えになりません。
その上、足の自由を奪われました。…乳のにおいを知りません。
母の手を知りません」。

だが、この詩の終わりの方は、こう結ばれているのである。

「生まれてから三十年経ちました。
私は今、机の上にかさねたノートを開いてみるのです。
此処には悲しみの詩が綴ってあります。
神様
これがあなたのたまものです。…おお 幾歳月…
私の詩は琴のように鳴りました。
森のように薫りました、いたみは樹液の匂いを放ちました。
神様、これがあなたのたまものです
」。

苦しみの中で、彼は、「神様、これがあなたのたまものです」と言えるものを見出した。最初の詩で「と苦痛の堆肥」と彼が歌ったのは、このことであろう。障害を持って生まれ、家庭的にも恵まれなかった身の不運を嘆きながらも、その中で彼は「神の愛」を信じた。

このことは、「ふうきん」という詩にも明らかだ。

「汗をかいて訪ねてくれた友達と
たくさん話を交わすため
足の立たないわたくしは
這いずりながら先へ立つ
わたくしの部屋はあちらです…
畳を這えば
さらさら音の立つのだが
嬉しい日の音楽でなくて何であろう
わたくしは膝で風琴を鳴らし
ともだちの前をせっせと這って行く」。

「膝で風琴を鳴らす」! なんという美しい表現だろう! 日常の苦しみの中で、かすかに鳴り渡る「嬉しい日の音楽」を、彼は聞き逃さない。

イザヤが「荒れ野に水が湧く」と言うのは、そういうことではないか。「信仰に入れば忽ち病気や障害は治る」というような安易な御利益宗教でも、当てのない将来の「空約束」でもない。神は生きておられ、あなたがたと共におられるのだから、現在の苦悩に満ちた生活の中でも「嬉しい日の音楽」が鳴らない筈はない。

このことを我々が信じることができるのは、イエスがこの世界に誕生したことを知らされているからである。ルカ福音書1,26-38の記事には、不安と恐れに満たされたマリアが登場する。だが、どんなに恐れや不安が大きくても、彼女のお腹の中には既に、神が約束された命が宿っている。小さいけれども確実に育っている。そしてこの幼子は、エゴイズムと憎しみが支配する世界に愛をもたらし、死の力が支配する世界に命をもたらす。これこそが世界の現実なのだ。

このことに目を留める時、我々は本当にイザヤの言葉を理解するであろう。島崎さんがそれを確かに理解したように。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ…」(1)!「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」


 
 

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