待降節第三日曜日の説教テキストは、先週に続いて旧約から選ばれている。「慰めよ、わが民を慰めよ」(40章1節以下)で始まる、最近よく使われる表現を使えば、「癒し」の言葉である。古来、この個所は救主の到来(誕生)を預言していると解釈され、例えば「救世主」の物語を音楽的に表現したヘンデルの「メサイヤ」でも、冒頭にテノールが朗々とこの個所を歌い上げる。我々は癒される。
もちろん歴史的に見れば、イザヤは、主イエス誕生の500年以上も前の「バビロン捕囚」と捕囚からの解放という出来事を背景にして語っている。イエスとの直接の関係はない。しかし、あの「解放の出来事」を、主イエスによる真の「人間解放」に重ねあわせて理解することは重要な意味を持っている。
このことについては後に述べるが、その前にイスラエル民族の歴史をざっと見ておく必要がある。イスラエル王国は紀元前1000年頃建国され、ダビデとソロモンの下で栄華を極めたが、その次の代に早くも南北に分裂する。そして、北王国は紀元前722年に超大国アッシリヤによって滅ぼされ、残った南王国ユダも紀元前587年、バビロニアのネブカドネツアル王によって滅亡し、それ以後、ユダヤ民族は何世紀もの間、例外的な一時期を除けば、国家の形を持たずに生存しなければならなかった。
「バビロン捕囚」というのは、南王国ユダ最後の王であったゼデキヤを初めとして主だった人々がネブカドネツアル王によってバビロンに拉致され、約半世紀の間、異郷での不自由な生活を強いられたという国民的苦難のことである。
しかし、今日の個所の後半に「肉なる者は皆、草に等しい。…草は枯れ、花はしぼむ」(6-7)と言われているように、隆盛を誇ったバビロニアもその後急速に衰え、紀元前539年には、東の新興ペルシャ帝国によって滅ぼされてしまう。「栄枯盛衰は世の習い」というが、世界史は実に変転極まりない。この世界史上の情勢の変化によって、捕囚は終わった。
現代史においても似たことが起こった。1945年、連合軍がドイツに攻め込んで、ナチスの作った悪名高い「強制収容所」を解放し、多くのユダヤ人や政治犯を釈放したように、また、10年前には旧ソ連が解体したことによって多くの人々がシベリヤの「収容所」から解放されたように、ペルシャのキュロス王によってバビロニアが滅ぼされた結果、捕囚としてバビロンに拉致されていたユダヤ人は解放される。
「第二イザヤ」と呼ばれるこの預言者が、「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(1)と言い、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」(2)と言うのはこの解放と関連している。そして、人々は故国に帰ってくる。「荒れ野に道を備えよ」(3)というのも、具体的に帰国のための街道を作ることをイメージして語られた言葉らしい。故郷に帰る! このことを、どんなに人々は喜んだことだろう!
私の両親・兄弟姉妹はすべて引揚者だった。父は「支那(当時はそう言っていた)派遣軍」総司令官・岡村寧次大将の副官を務める職業軍人だったから、敗戦後、南京の捕虜収容所に入れられていた。母と姉弟たちは、父が南京に転任するまで部隊長を務めていた部隊に同行する形で満州に残っていた。だから敗戦の時は、家族は三ヶ所にバラバラになっていたわけである。父も母も、1年間、それぞれの場所で生き抜き、翌年の夏、ほとんど着の身着のままで、草臥れ果てて、しかし、故国で家族と再会できるという希望を抱いて帰ってきた。後に私は、「国に帰れるという知らせが来た時、どんなに嬉しかったか」という話を何度も聞かされた。
さて、「バビロン捕囚」は、自分が本来いるべきではない所に強制的に止め置かれたという出来事であった。見知らぬ人々・通じない言葉・慣れない食べ物や住まい・全く別の気候。確かに、何時しかそれらにも慣れるということはあるだろう。だが、自分が本来いるべき故郷への憧憬は止み難い。人々は夜な夜な枕を濡らしたであろう。シベリヤに抑留された多くの日本兵も、中国に抑留されていた私の両親や姉妹も、同じ気持ちを味わったに違いない。その捕囚から解放されて、遥かな異郷の地から本来彼らがいるべき場に、故郷に帰される。
だが、それは石川啄木がいくらかセンチメンタルに歌ったような故郷、ただ「有り難い」と言う他はないような「山や川」にとどまらない。かつてはそこに神殿があり、その中心の至聖所には「十戒」の二枚の板を収めた「契約の箱」が置いてあった。神が我々から何を求めておられるか。どのように生きることが神の御心に適うか。このことを中心にして生きる生活。それが民族にとって本来の場所であり、帰るべき場所なのだ。そこが「故郷」なのだ。第二イザヤは、この故郷に帰る道を神が用意して人々を解放した、と言う。
しかし、エジプトから解放されたイスラエル民族が本当の意味では解放されなかったように、バビロンから解放されたユダの人々も、本当の故郷・本来あるべき生に戻ることは出来なかった。第二イザヤは挫折感を味わい、うめくようにして「そのことを遂に達成してくれる方が我々の所に来てくれないものか」と問うようになった、という。そして遂に、自分の受けた傷によって私たちを癒す「主の僕」(53章5節)という不思議な人物像を胸に思い描くようになったらしい。今日の言葉が主イエスの到来を証しする預言であるというのは、この意味で真実なのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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