キリストの御業は「下降」と「高挙」という二つの主要部分に分けることができます。
キリストの下降が始まったのはキリストが人になられたときであり、その下降が最も深くなったのはキリストの十字架上での死においてでした。パウロはキリストの下降について「キリストは神様のかたちであられたのに、神様と同等の存在であることを自らの獲得物とは思わずに、かえって御自分をむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられました。その有様は人として見出され、御自分を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした」というよく知られた表現で描写しました(「フィリピの信徒への手紙」2章6節以降)。
キリストは御自分をむなしくなさいました。パウロの説明によると、それはキリストが御自分が神様と同等の存在であることを自分で獲得したとは見なさなかったことを意味しています。キリストはもともと神様と同質の存在であり、それをわざわざ自分に勝ち取る必要はなかったからです。処女マリアの胎に宿る以前には「神様のかたち」のみをもっておられたキリストは、それを背景にひっこめて「人」としてこの世にお生まれになりました。キリストは人となることで時間と空間によって限定された領域へと身を低めました。石だらけの道を痛む足で歩き回りました。疲れた頭を休める場所もありませんでした。陰謀に苦しめられ、陰口の犠牲となりました。そして、鞭で打たれ、苦痛に満ちた死を甘受なさいました。
パウロはキリストが死に至るまで従順を貫かれたことを強調しました。「ヘブライの信徒への手紙」にもパウロの手紙と同じテーマが登場します。「この方は御子でありながらも、さまざまな苦しみを通して従順を学ばれたのです」(5章8節)。神様なるお方が自ら律法の下へ身を低め、人間が破ったすべての戒めを私たちに代わって完全に実行してくださったのです。キリストは御自分に委ねられた権能を私益のために悪用させようとした「誘惑する者」(悪魔のこと)の試みをすべて斥けました。キリストこそは世の人間の中で神様が人間に望まれた理想的な生活を純粋に実現した最初で最後の人でもありました。
それだけではありません。この地上でただひとり義なるキリストがその死にいたるまで従順を貫いたのです。そして、人間たちを神様への不従順という罪の罰から救い出すために、底知れない苦しみを身代わりに引き受けてくださったのです。
「それゆえ」とパウロは言います、「神様はこの方を高くあげ、この方にすべての名よりも高い御名をお与えになりました」(「フィリピの信徒への手紙」2章9節)。
キリストの高挙は「使徒信条」では「陰府にくだり」という箇所から始まります。キリストが墓に葬られた時点で、人間的に見れば一切の希望は失われたといえます。イエス様の敵の勝利に終わったようにみえたからです。彼らは民衆の前で「イエスは詐欺師である」と言いふらしました。旧約聖書に基づいて、十字架に架けられ絞首刑の木に吊されることは受刑者が神様に呪われ見捨てられた確実な証拠であると見なされていました(「申命記」21章22~23節)。弟子たちはもはや何を信じるべきかわからなくなっていました。それで彼らは錠を下ろした部屋の内側に隠れていたのです。
そのときに神様は人間を救う御計画の中でもきわめて決定的かつ斬新なやりかたで働きかけてくださいました。私たち人間ができうる限り深い底へと沈めたお方を、なんと神様が高きところへと挙げてくださったのです。すなわち、神様はイエス様を死者たちの中からよみがえらせ、「すべての名よりも高き御名」、「主」という神様の御名をイエス様にお与えになったのです。キリストは神様の御力による死者からの復活によってその神の御子たる本質が人々にも明示された方なのです(「ローマの信徒への手紙」1章4節)。
キリストの高挙は陰府(死者たちのいる世界)から始まりました。陰府へと下ったキリストは、他の死者たちとは異なり、知られざる場所の中へと永遠に消えゆくことはありませんでした。天と地における一切の権能を有するお方として、キリストは陰府に下降なさいました。陰府においても、キリスト以前に死んだ者たちに対して福音が宣べ伝えられたであろうことを新約聖書は示唆しています(「ペテロの第一の手紙」3章19節、4章6節)。
しかし、地上の人間世界の歴史においては、キリストの高挙は復活から始まります。
私たちキリスト信仰者は「キリストの復活」を人間世界全体に関わるキリスト教の基本的な事実であると見なしていますが、一方では、この事実が本当かどうか疑うことができることも知っています。それは、はるか昔のすべての出来事が事実かどうか疑うことができることとまったく同様です。しかも、これはもっともな懐疑でもあります。なぜなら、ここで問題になっているのはただ一度だけ起こった比類のない出来事だからです。
それでは、キリスト信仰者はいったいどのようなことに基づいて、キリストが本当に死者たちの中からよみがえられたという確信を得ているのでしょうか?
第一に、弟子たちはキリストの復活をどのようにして信じることができたのでしょうか?彼らがこの出来事について語ったことを通して、私たちはこのことを考えることができます。出来事について目撃者たちは驚嘆しつつ証言しています。起きた出来事について各々が独自の視点から生々しく語っています。彼らの証言には、どのような疑問にもあらかじめ返事が用意されている「首尾一貫した物語」とするために後から細工や編集が施された形跡はありません。
弟子たちにとってこの出来事はまったく予想外なものでした。たしかにイエス様は復活について以前にも話しておられました。しかし、それは彼らの想像力をはるかに超えるものだったため、おそらく彼らはそれを心の隅に追いやっていたのでしょう。
イエス様の復活は一挙に事態を変えました。完全な敗北と皆に思われていたことが、実は決定的な勝利であったことが示されたのです。外面的に見ると、弟子たちの立場が好転するようなことは何も起きなかったようではあります。ユダヤ人たちにとって、イエス様は依然として処刑された詐欺師でした。ところが、「キリストは正しかった。キリストは勝利なさった。キリストは神様の御子である」という揺るがない確信を弟子たちに瞬時に与える何事かが起きたのです。どのようなことがこの確信を彼らに与えたのでしょうか。彼ら自身が語っているように、それは死者の中からのイエス様の復活の出来事でした。彼らはイエス様の墓が空になっているのを発見しました。その後、彼らはイエス様を自分の目で見、面と向かってイエス様と話し合いました。また、イエス様の復活について世の中の人々を説得するようにイエス様から命じられました。それゆえに、彼らにはイエス様の御名によって宣教する勇気が与えられたのです。人間的に見れば、これはまったく愚かなことでした。それは想像しうるかぎりもっとも望みのない試みのはじまりでもありました。しかし、イエス様の死によって自分たちの期待や信仰が潰え去ったと感じていたにもかかわらず、イエス様の弟子たちはイエス様の指示に従いました。
このような証人たちの証言は信じるに値します。人間的に見れば、彼らはその活動を通して迫害を受け、しまいには殉教していくほかありませんでした。しかし、疑いの余地が微塵もないほど偉大で革新的で信頼できる出来事に彼らは遭遇したのです。
歴史的に言えることは、イエス様の死後、イエス様が復活なさったことやイエス様が神様の御子であり人間世界の解放者であることを世界全体に宣教する使命を直接イエス様から受けたとイエス様の弟子たちに確信させる何か特別な出来事が起きたということです。イエス様を収めた墓が空だったことは当時すでに一般的によく知られていた事実であったようで、それについて反対者たちは筋道の通った説明を与えなければなりませんでした。復活した主を目にしたのは弟子たちだけでした。目撃者は大勢いました。パウロの報告によると500人以上いました(「コリントの信徒への第一の手紙」15章6節)。もちろんこの不思議な現象については、夢破れたイエス様の信奉者たちには絶望から我が身を守るために幻想や恍惚状態を経験したり想像の世界へ逃避したりする必要があった、などと説明付けることはできます。しかしその一方では、このような説明が的外れであることを示す、真剣な検討に価する次のような証拠もあります。すなわち、イエス様の復活を宣べ伝えはじめた弟子たちは、長期間にわたって、困難な仕事を抱え様々な危険に晒されることになりました。彼らはふつうの働き人であり、使徒の職務の中で現実の生活に絶えず触れていました。彼らは日常から遊離してはいませんでした。真実性が怪しまれることや危険に感じることに対しては健全な疑いをもつ普通人であったと思われます。イエス様の復活についても彼らの示した最初の反応は「疑い」でした(「マルコによる福音書」16章11節以降)。
人がキリストを信じるようになる決定的な要因はその人自身の経験です。人々が自らの人生の中で何度も繰り返して「復活の主」に出会うことがなかったとしたら、復活への信仰が今に至るまでこの世で存続するのはありえなかったでしょう。キリスト教会がこの信仰をしっかり守り続けていることには理由があります。教会全体の命はキリストと共にある命であり、その中でこそ復活の主が私たちに語りかけ、私たちの只中で働かれるのです。
「復活信仰」に関する確信の基盤は私たちが「神様への信仰」に関わる問題を考えるときと同じです。イエス様の復活についても理論的には多様な説明を与えることが可能です。しかし、人はそれらの中から何かを選ばなければなりません。結局のところ個人的な確信は、人が真理に出会った際にその人が間をおかずに内面で個人的に経験する事柄にその基礎を置くものなのです。
これからキリスト教の復活信仰の内容を描写していきますが、私たちはそれを新約聖書に記述されている事柄に沿って紹介することにします。
イエス様の復活の最も明瞭な第一の意味は「死は打ち破られた」ということです。キリストは死を打ち滅ぼしました。ですから、死はもはやキリストを自分の支配下におくことができません。
もしもそうでなかったならば、死は人間世界を無制限に支配し続けたことでしょう。死は、人が神様との良好な関係を捨てており、もはや神様と共に活きていない、という罪の引き起こす結果です。もともと人は神様との破綻しない理想的な関係の中で活きていくように定められていました。もしも罪がこの関係を壊すことがなかったとしたら、どうなったのでしょうか?私たちは想像するしかありません。その場合には、死は少なくとも今のような恐るべき滅びの力ではなかったことでしょう。私たちの体を痛めつけ滅ぼす点で、また私たちの中に恐れと生きる意味を見失わせる感情とを生み出す点で、死は「敵」と呼べるものです。死は神様の世界では本来なら起こるべきではない事態を引き起こしました。死の恐るべき滅ぼし尽くす支配力は罪と連関しています。それは、神様の御意志と矛盾する、神様の善き創造の御業を腐敗させるものが実在することを示しています。
キリストの復活はこの滅びの力がもはや支配力を独占しているわけではないことを宣言しています。死に打ち勝つ存在が現れたのです。神様と人々とを分け隔てる深淵を越えて「橋」が架けられました。復活は神様が私たちの罪の重荷を拭い去るという御業や「贖い」と呼ばれる御業と内的に関係しています。
キリストは私たちを罪から贖い出してくださったお方です。これは新約聖書がイエス様の苦しみや死に対して与えている説明の最も大切な点のひとつです。罪人を神様から分け隔てるすべての障害が存在するにもかかわらず、神様は罪人に神様の子どもになる可能性を備えてくださいました。これが贖いの意味です。罪深い存在である人間が神様と共にいようとすると、悪と接触を持ちえない聖なる神様の愛の力のゆえに人間なら誰もが滅ぼされてしまう、というのが本来なら当然なのですが、キリストの贖いの御業のおかげで罪人が神様と共にいることができるようになったのです。
贖いは奥義です。私たちの思考力ではそれを部分的に理解できるにすぎません。キリストが世のすべての罪を御自分に引き受けられたことや、キリストがそれらの罪を御自分の体によって十字架まで運び、私たち人間が罪を犯したことに由来するすべての悪い結果を身代わりに引き受けてくださったことを私たちは知っています(「ペテロの第一の手紙」2章24節)。まさにこのゆえにキリストは十字架で死ななければならなかったことを私たちはすでに学びました。キリストの中で本来ひとつにすることができない二つのものが出会いました。すなわち、神様と悪です。しかしまた、キリストを犠牲死へと至らせたこの出会いは、キリストの尊い血の代価によって罪がすべて帳消しにされ負債が全額返済されるという結果をもたらしました。どのようにしてこのことが起きたのか、私たちのうちの誰ひとり詳細な説明を与えることができません。新約聖書は様々なイメージを用いながら、まさにこの結果がゴルゴタでもたらされたことを何度も強調しています。私たちのために「呪いの下にあるもの」、「呪いそのもの」となったときに、キリストは私たちを律法の呪いから買い戻し解放してくださったのです(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節)。
キリストの死はそれゆえ「犠牲」と名づけることができます。「ヘブライの信徒への手紙」によれば、旧約聖書の犠牲を捧げる儀式は「来るべきよいことの影」、来るべき出来事を指し示す比喩でした(10章1節以降)。これら犠牲の儀式は人間に自らの罪深さを絶えず思い起こさせ、神様の律法を破ることがどれほど重大な過失であるかを示す出来事でした。律法を破ったがゆえに律法によって死罪とされるはずの者が神様の裁きの下に置かれ、自分の命の代価としての犠牲を捧げ、自分の罪の重荷を告白しました。これらの犠牲はキリストのことを指し示している「予型」でもあります。キリストは神の御民の罪のために捧げられた犠牲や、御民の代表者として犠牲を捧げる大祭司に比較されています(「ヘブライの信徒への手紙」10章10節、9章11節以降)。
贖いの意味は新約聖書に従って「仲保者」という言葉でも説明できます(「テモテへの第一の手紙」2章5節以降)。キリストは神様であると同時にも人間でもあります。それゆえ、キリストは神様と人との仲介者の役割を担うことができるのです。このキリストが私たち人間の罪を取り去って肩代わりし、私たちが神様の御許に行けるようにしてくださったのです。キリストを通して私たちは神様のおそば近くに行くことができます。まだ贖われていない罪は聖なる神様の愛を耐えることができません。しかし、成し遂げられた贖いのゆえに、神様の愛が私たち人間を焼き滅ぼすことはもはやなくなりました。それどころか、私たちはこの愛を御父の真心の暖かさとして経験することができるのです。
復活の意味は、世の罪が贖われた後で死が打ち破られたことだけではありません。それは同時に新しい世界と神様の新しい創造の御業の始まりを告げるものでもあります。キリストは「神様の御国」(あるいはマタイが言っているように「天の御国」)を創設するためにこの世に来られたのです。神様の御国は「神様による支配」を意味しています。それは、悪が粉砕されて、神様に対する反抗もなく、それゆえにいかなる苦しみもない新しい世界のことです。この新世界は神様が新しいことを創造なさることによってのみ実現します。「肉や血」すなわち私たちの人間的な性質は神様の御国を継ぐことができません。神様が御自分で以前造られたものを創造の力によって変えることによって「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになります」(「コリントの信徒への第一の手紙」15章50,53節)。この「新たな創造の御業の初穂」こそ、復活して弟子たちに姿を現したキリストです。復活の証人たちは、本来なら記述不可能なはずの出来事を描写しようと試みたのです。
彼らが立ち会ったのはまったく新しい出来事でした。新約聖書は「栄光の体」やキリストの「栄光のかたち」について語っています(「フィリピの信徒への手紙」3章21節)。この「栄光のかたち」がどのようなものか私たちは知りません。この世にはそれに比較するものが何もないからです。私たちが知っているのは、イエス様は復活の後にもこの世に明らかに実在しておられたが、この世に出自をもつ方ではなかったことだけです。弟子たちはイエス様のことを認識して会話を交わすことができました。しかしその一方で、イエス様は閉め切った戸を通り抜けて弟子たちの目の前から消え去ることもできました。
さらに、新約聖書は「キリストが死者たちの復活の長子である」と教えています(「使徒言行録」26章23節)。キリストになさったことを神様は、信仰を通してキリストに属しているすべての人たちに対しても行われます。神様の御国において私たちは皆同じ「栄光のかたち」をいただくことになるのです。「私たちがどうなるのか、まだ明らかではありません。この方が現れるとき、私たちは自分たちがこの方に似るものになることを知っています」(「ヨハネの第一の手紙」3章2節)。
イエス様の復活の出来事の数週間後、ペテロはユダヤ人たちに話しかけてこう言いました、「神様がまずあなたたちのために御子を立てて遣わされたのは、あなたたちひとりひとりが悪から立ち返ることによって、あなたたちを祝福なさるためです」(「使徒言行録」3章26節)。
ここで私たちは復活の出来事の別の側面に出会います。それは、キリストのたゆまない御業の出発点を意味しています。人々が「もう終わった」と思ったことを、神様は世の終わりまで継続する働きの始点となさいました。人々は神様の提供なさる恵みを心かたくなに拒絶することで一切の可能性を台無しにしてしまったかのように見えました。しかし、そのような状況の下にいる人々の罪の重荷を取り去り肩代わりすることで、神様はまったく新しい道を人々に開いてくださったのです。このことについてパウロは「ローマの信徒への手紙」の中で「キリストは私たちの罪過のために死に渡され、私たちが義とされるためによみがえらされたのです」(「ローマの信徒への手紙」4章25節)と言っています。キリストの復活は人間社会の歴史にまったく新しい地平を開きました。それ以来、復活の主御自身が十字架の御業による罪の赦しを全人類に提供すべく福音を告げ知らせておられます。
これはまたキリストが全人類のすべての罪を帳消しにしてくださった結果でもあります。この世は神様を捨てた結果、裁きの下に置かれてしまいました。しかし、今や無制限の罪の赦しを受ける可能性がこの世に対して差し伸べられているのです。
EnglishHe is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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