黙示録における「暴力」

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

5月29日の福音主義神学会東部部会での研究会は100名を超える方々が参加してくださり、とても有意義な時を持つことができました。

会では南野浩則先生「旧約聖書の平和論」と題してたいへん有意義な講演を行ってくださいました。個人的に強く共感を覚えたのは、旧約聖書には平和に関して多様な声があり、それに対して現代に生きる私たちがどのような解釈を行うかの責任を与えられている、ということでした。聖書解釈における読者の重要性は先生のご著書『聖書を解釈するということ』においても論じられていますが、これまで福音派の聖書解釈ではあまり強調されてこなかった重要な論点であると思います。

私は「新約聖書の平和論―黙示録を中心に」と題して、特に黙示録における暴力表現をどう解釈するか、という主題でお話させていただきました。以下に脚注等を除き聖書引用等多少手を加えたダイジェスト版を掲載します。

新約聖書の平和論―黙示録を中心に

I.はじめに

今回の発表に関して、福音主義神学会東部部会より「新約聖書の平和論」というテーマを頂いた。これは広範囲にわたる主題であり、発表者の能力的にも時間的制約から言っても新約聖書全体を取り上げることは難しい。そこで今回は、ヨハネの黙示録に絞って平和の問題を考えてみたい。黙示録を取り上げたのは、新約聖書全巻の中で、この書がもっとも平和から遠い、「暴力的な書」というイメージを持たれているからでもある。たとえば英国の作家D・H・ロレンスは、黙示録が体現しているのはイエスやパウロらの宗教とは異なる別種のキリスト教であり、この書は敵を憎悪し世界の破滅を欲する「聖書全篇のうち最もいまわしい一篇」である、と断罪する(『黙示録論』)。米国の聖書学者アデラ・ヤーブロ・コリンズは、黙示録がローマに対する暴力的抵抗を促すものではないと認めつつも、それは他者に対する激しい攻撃的感情をかき立てるものであって、愛に欠けるものであると批判する(Crisis and Catharsis, 156-61, 170-75)。

福音主義的キリスト者の中でさえ、黙示録における暴力を肯定する見解があり、しかもそれは大衆文化にも大きな影響を及ぼしている。たとえば米国を中心として世界的なベストセラーとなった『レフトビハインド』シリーズの最終巻において、再臨のキリストが神に敵対する人々を文字通り虐殺する様子が描かれている:

レイフォードがのぞいている双眼鏡の先では、男女の兵士や馬が立っているその場で爆発しているようだった。主のことばそのものが彼らの血を過熱させ,それが血管と皮膚を突き破っているかのようだった。「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」何万という歩兵が持っていた武器を落とし、自分の頭か胸をつかみ、膝をつき、身をよじりながら、目に見えない何かでばらばらに切り裂かれていった。はらわたが砂漠の床に流れ出し、そのまわりで逃げまどう者たちも殺され、血があふれ、キリストの栄光の容赦ない輝きのなかでその嵩を増していった。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える」反キリストの軍隊が主の虐殺のいけにえの動物になったかのようだった。

ティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズ『グロリアス・アピアリング』258-59頁

この箇所は黙示録19:11–21、特に15節(「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。」)に基づいているようである。再臨のキリストの口から出る「剣」、すなわちキリストのことばが文字通り敵を虐殺するという解釈である。さらにこのシリーズでは神が暴力的に描かれているというだけではない。神の民であるキリスト者もまた、神の暴力に参加するという名目で暴力を振るうことが正当化されるのである。

このような現状から、2つの問題提起を行いたい。①黙示録はキリスト者に対して悪に対して暴力を用いて戦う/抵抗することを求めているのか、そして②黙示録の神/キリストは終末のさばきにおいて文字通りの暴力を用いるのか、である。キリスト教倫理としての平和論を考える際には①が中心となるだろうが、①と②は切り離すことができない。キリスト者の行動にはその神観が多かれ少なかれ影響を及ぼすはずだからである。同時にこの2つは同じものではない。クリスチャンは非暴力的に悪に抵抗しつつ、終末における神の暴力的なさばきを待ち望む/祈り求めるということもありうるからである。したがって本発表では、キリスト者の勝利と、神/キリストの勝利という2つの主題において、暴力がどのように関係してくるかについて、黙示録の関連箇所の分析を含めつつ考えたい。

II. 予備的考察

A. 黙示録の成立背景

ヨハネの黙示録のメッセージは、その書が成立した具体的な歴史的背景を抜きにして考察することはできないので、これについて簡単に述べる。2世紀の教父エイレナイオスは、黙示録はドミティアヌスの治世(81–96年)の終わり頃に書かれたと記しており、現代の学者の大多数も本書の著作年代をドミティアヌス時代と考えている。ヨハネと名乗る(1:4)本書の著者は、伝統的にゼベダイの子、使徒ヨハネであり、ヨハネの福音書や手紙の筆者と同一人物であるとされてきた。しかしこれには古くから異論もあり、別のヨハネである可能性も否定できない。いずれにしてもこのヨハネはローマ帝国のアジア州にある諸教会において影響力のある教会指導者また預言者であり、エーゲ海に浮かぶパトモスという島で復活のキリストからの啓示を受け、これらの教会、特にそのうちの7教会に向けて本書を書いている。

過去の学者たちの多くは、ドミティアヌスの時代に大規模な迫害があり、それが黙示録執筆のきっかけとなったと考えた。しかしより最近の研究では、ドミティアヌスの時代には公式的なキリスト教迫害はなかったということが明らかになってきている。にもかかわらず、地域主導の皇帝礼拝やその他の異教的行事に参加するように求める強力な誘惑の元にアジア州のクリスチャンたちは生活していた。そして、ペルガモンにおけるアンティパスの殉教(2:13)に見られるような局所的・散発的な迫害は実際に起こっていた。また60年代のネロによる迫害はよく知られており、帝国がその気になれば残酷な迫害を行うことができることを示していた。つまり、ヨハネが本書を書いた当時の教会は、現実的な激しい組織的弾圧の中にあったわけではないが、そうなる可能性を常に自覚しつつ歩んでいたと思われる。一方都市に住むクリスチャンたちにとってはローマ帝国の経済的繁栄からくる誘惑もあった。

ヨハネの黙示録はローマ帝国の支配を背景にして書かれているだけでなく、その支配を明確に意識している。ローマの主要イデオロギーの一つは「平和」(Pax Romana)であった。特に初代皇帝のアウグストゥスは、内戦を終わらせ地中海世界に平和をもたらしたことを称賛された。ヨハネの活動地域でもあったアジア州のプリエネに残っている碑文(前9年)にも、彼が「戦争を終わらせ、平和を作り出した」と刻まれている。しかし、このような「平和」は武力を伴う上からの支配によって初めて可能になるものであった。アウグストゥスは自ら、勝利によって平和を勝ち取ったことを示唆している。また前9年に奉献された「平和の祭壇」(Ara Pacis Augustae)はヒスパニアとガリアにおけるアウグストゥスの勝利をたたえて造られたものであった。

そのような「平和」は被支配者の視点からはまったく異なるものとして映る。たとえば60年代後半から70年代初めにかけて戦われた第一次ユダヤ戦争はローマの圧倒的な暴力によって制圧され、エルサレムとその神殿の破壊によって「平和」が回復された。この出来事を受けて書かれた文書である第四エズラ書において、「ローマの平和」は次のように描かれている:

40 お前は四番目にやって来て、それまでの獣をすべて征服し、権力を振るって世を大いに震え上がらせ、全世界をひどく苦しめ、またこれほど長い間、世に住み着いて欺いた。 41 お前は地を裁いたが、真理によってではなかった。 42 お前は柔和な人を苦しめ、黙している人を傷つけ、真実を語る人を憎み、うそつきを愛し、栄える者の住居を壊し、お前に何の害も及ぼさなかった人の城壁を打ち倒した。 43 お前の非道はいと高き方に、お前の傲慢は力ある者に達した。

4エズラ11:40–43

新約聖書全体はこのような「ローマの平和」を背景に書かれているが、特に黙示録では暴力と経済的搾取によって成り立つローマの偽りの「平和」が厳しく批判されて、それに対するさばきが語られる。ところが、ここで読者は大きく困惑することになる。なぜなら、黙示録では神がくだすさばきそのものが、生々しい暴力に満ちたものとして描かれているからである。黙示録のこのような暴力描写をどのように理解したら良いのだろうか。

B. 黙示録における暴力的イメージの解釈

ユージン・ボーリングは黙示録における暴力的表象を解釈するにあたって、①前提となるヨハネの状況、②ヨハネによる伝承の流用、③ヨハネの言語の使用、④ヨハネの神学の四点を考慮すべきであると述べている(『ヨハネの黙示録』180–89頁)。

第一に、黙示録を書いた当時のヨハネと読者の共同体は極度な苦しみの状況にあり、そのような人々が神の正義を求めるに当たって抑圧者に対する怒りや復讐の感情を表現するのは自然なことである。

第二に、黙示録における暴力的描写のほとんどはヨハネのオリジナルではなく、彼以前にあったさまざまな伝承を流用したものである。その中には、古代近東の戦いの神話、ユダヤ教の黙示文学における「メシア的災い」の図式、聖書における神の戦いやさばきの表象(出エジプトの物語、呪いの詩篇、神顕現の描写など)が含まれる。

第三に、黙示録の暴力的描写においてヨハネ自身が使用している言語は幻視的/隠喩的であり、それらを文字通りに受け取るべきではない。またこれは信仰共同体内部の者に向けられた信仰告白的な言語であって、敵の滅びよりもむしろ信じる者の救いに焦点を当てたものである。

第四に、黙示録の暴力的描写を解釈するためには、ヨハネの神学と目的を考慮しなければならない。それは人間の普遍的な罪深さ、悔い改めへの呼びかけと神のさばきを含む。しかし同時に、神は普遍的な救いも望んでいる。そしてまた、ヨハネは伝統的表象をキリスト論的に変形している。

本発表では、基本的にボーリングのアプローチに同意しつつ、特に聖書やユダヤ教に由来する伝統的表現をヨハネがどのように使用しているかという点に焦点を当てていく。

C. 黙示文学の伝統の使用

ヨハネの黙示録がユダヤ教の黙示文学という文学類型に属することでは大多数の学者が一致しているが、黙示録はいくつかのユニークな特徴も有しており、単純に両者を同一視することはできない。特に本発表の主題である、終末の戦いとさばきについては、ヨハネが伝統的表象を利用しつつも、重要な変更を加えていることを注意深く観察する必要がある。

「戦う神」のイメージは、出エジプトやカナン征服に関するナラティヴや詩をはじめとして旧約聖書にあふれている。また、神やそのメシアが平和をもたらすとされる箇所でさえ、そこには暴力的に敵を打倒する内容が含まれている(イザ9:3–5、詩46:9–11他)。旧約聖書の中でも黙示文学的とされる箇所では、終末における諸国民との戦いが描写される(ダニ11章、エゼ38–39章、ゼカ14章他)。

初期ユダヤ教においても同様である。第一エノク書90:19では、ユダヤ人を表す「羊」に「剣」が与えられ、敵を滅ぼす様子が描かれる。最終的勝利は神とその天使たちによって達成されるが、神の民の軍事的役割も否定されてはいない。死海文書の「戦いの巻物」(1QM)では、終末における光の子らと闇の子らの戦いが描かれるが、神の民の軍隊がベリアルに率いられる闇の子らの軍隊を殲滅する様子が詳細に描かれる。

黙示録とほぼ同時代の黙示文学として、第四エズラ書とシリア語バルク黙示録がある。どちらも70年の神殿崩壊の衝撃に対する応答として書かれた。シリア語バルク黙示録40章では地上を支配する第四の王国(ローマ)を「油注がれた者」(メシア)が滅ぼし、生き残った最後の支配者をシオンの山に引いてきて、その罪状を述べた後に殺す。第四エズラ書13章では「人の子」と呼ばれる存在が数え切れないほどの群衆と戦い、彼らを口から出る火で滅ぼす様が描かれる。

旧約聖書とユダヤ黙示文学におけるこのような終末の戦いの表象は、黙示録に描かれる終末のさばきの描写と通ずるものがあり、ヨハネはこれらの伝統的表現を使用して黙示録を書いていることが分かる。ただし、ヨハネが特定の文書を引用しているというよりは、より広い黙示文学的伝統(口頭伝承も含む)を参照していると考える方が良い。

しかし、ヨハネが伝統的な黙示文学的「表現」を使用しているからといって、そこから直ちに、終末の戦いは現実の暴力を用いる戦争であるというその「思想」までも彼が無批判に受け継いでいると結論づけるのは早計である。黙示録には、これらの戦いの表象を再解釈するための重要な解釈装置が含まれているからである。それはヨハネの小羊キリスト論である。

D. 屠られた小羊としてのキリスト

黙示録の中で「小羊」(arnion)の語は29回登場し、そのうち28回(=7×4)はキリストについて用いられている。7は完全、4は世界を象徴する数であるため、リチャード・ボウカムはこの数字の象徴的な意味を、キリストの「完全な支配が世界規模のものである」ことを表すと解釈する(『ヨハネ黙示録の神学』88頁)。この表現は天上の玉座の間の幻を描く5章で初めて現れ、6章以降の終末の審判の描写において繰り返し登場し、新天新地の描写にも登場する。したがって、小羊のイメージは黙示録におけるキリストについての中心的メタファーであると言うことができる。

それでは、ヨハネがキリストを小羊にたとえる意図は何であろうか。小羊のイメージが最初に登場する5章が鍵となる。

1 またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。 2 また、一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見た。 3 しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。 4 この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。 5 すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」 6 わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。

黙示録5:1–6

ヨハネは天上の神の御座の幻の中で、「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得た」という声を聞く(5節)。「ユダ族から出た獅子」や「ダビデのひこばえ」はユダヤ教において敵を征服する王としてのダビデ的なメシアをただちに連想させる表現であり、神の救いを待ち望む読者の期待に沿うイメージであった(創49:9–10、4エズ12:31–32)。そしてダビデ的な王としてのメシアの標準的な働きは、悪の勢力を暴力的に滅ぼすことだったのである。

しかしヨハネが実際に目にしたのは「屠られたような小羊」であった(6節)。これは明らかに十字架と復活を表している。ヨハネは、勝利するメシアは十字架で死んでよみがえったイエスだというのである。しかし、イエスが小羊にたとえられているのは、何を意味するのだろうか。

黙示録5章で「小羊」と訳されているギリシア語はarnionであるが、この言葉をキリストに対して用いているのは黙示録のみである。他の新約書巻ではキリストに対してはpascha(1コリ5:7)、amnos(ヨハ1:29、36、使徒8:32、1ペテ1:19)が使われている。arnionは黙示録以外ではヨハネ21:15のみに出てくるが、そこではキリストではなく複数形で弟子たちを表している。ルカ10:3でイエスが弟子たちを遣わすのは「狼の中に小羊を送り込むようなもの」だと語るが、そこで使われているギリシア語arēnの指小形がarnionである。旧約聖書(七十人訳聖書)におけるarnionの用法は何らかの形の脆弱性を表している(詩114:4、6、エレ11:19、50:45等)。新約聖書のamnosは祭儀における犠牲獣としての小羊について用いられるのに対して、黙示録におけるarnionはルカ福音書におけるarēnと同様、傷つきやすさを強調していると言える。すなわち、ヨハネが幻の中で見た勝利するキリストは、強さとは正反対の「弱さ」の象徴である小羊の姿をしていたというのである。

5章で初めて小羊としてのキリスト表象が現れるのは、修辞学的な効果を狙ったものであり、読者に驚きと衝撃をもたらすことが意図されている。しかもこの衝撃は、この弱い小羊が神の巻物の封印を解くに唯一ふさわしい存在であり(9節)、あらゆる賛美にふさわしい存在でもあり(12節)、最後に全被造物によって神と同格の立場でほめたたえられる存在である(13節)とされることによって、最高度に高められる。ここは疑いもなく、黙示録全巻における中心的クライマックスである。

最初に小羊のイメージが登場する黙示録5章において、小羊が獅子のイメージを置き換える形で登場することは重要である。獅子としてのキリストのイメージはこれ以降黙示録の中で二度と登場しない。これは、6章以降の幻において、イエスは獅子のように悪に勝利するが、それは屠られた小羊としてそうすることを意味する。ボーリングは、これは「伝承が『獅子』と述べる箇所はどこでも、『小羊』と読みなさい」という意味だというが(『ヨハネの黙示録』177頁)、これは同時に黙示録においてキリストが獅子のように描かれているところはどこでも、それを小羊のように読み替える必要があることを示している。ヨハネは伝統的な「メシアの聖戦」という主題を逆転させ、キリスト教的に再解釈している。たしかにイエスは悪の力に勝利するダビデ的メシアである。ただし、その勝利は軍事的戦いを通してではなく、十字架における犠牲的な死を通して得られるものである。

「屠られた小羊」としてのメシア像は、キリスト教以前のユダヤ教にはなかった。それはキリスト教的イノベーションである。神の悪に対する終末的勝利を描く際に、ヨハネが伝統的な黙示文学的形式を採用しつつも、それに重要な変更を加えている場合、その変更点こそが彼が黙示録で伝えたい中心的メッセージであると考えることができる。

したがって、「屠られた小羊」としてのキリストのイメージとそれにともなう再解釈されたメシア像は、黙示録全体を読み解く解釈レンズとして機能する。ヨハネは伝統的黙示文学の「表現」をふんだんに用いるが、それらを異なる「意味」を伝えるために用いているのである。したがって、読者は黙示録における聖戦の描写を読む時に、それを文字通りに受け取るのではなく、それをキリスト教的に「証しと殉教を通した勝利」と読み替えるように求められるのである。黙示録の直接的批判対象はローマ帝国であるが、ヨハネは読者に対してローマに対する聖戦を――すなわち積極的抵抗を――呼びかけている。ただしそれは物理的暴力による抵抗ではなく、キリストへの証しと死に至るまでの忠誠をもってなすべきものなのである。

以下では、このような解釈レンズを用いて、最初に悪に対する教会の戦いの記述について、次に神とキリストの戦いの記述について、それぞれ考察する。

III. 小羊の軍隊:黙示録におけるキリスト者の戦い

黙示録の中には「戦い」のイメージが溢れており、それは教会にも適用される。2–3章に記されている、アジア州の7教会へのメッセージでは、すべての教会に対して「勝利を得る者」に対する報いが語られる(黙2:7、11、17、26、3:5、12、21)。また本書の終わり近くでは、新天新地と新しいエルサレムの幻について語られた後、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」と語られる(21:7)。ヨハネは教会を戦う存在として捉えているのである。しかし、これらの箇所では、教会が何とどのように戦うのか、具体的には記されていない。

黙示録のナラティヴを読み進めていくと、教会が戦う相手は「獣」と呼ばれる存在であることが分かる。13章で海から上ってくる獣はダニエル書7章を下敷きとしており、ローマ帝国を表している。この獣は「聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され」た(13:7)。この同じ出来事が11章でも描かれている。同じく教会を表す「二人の証人」が証しをするが、「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」(11:7)。

一見すると、教会は獣に敗北してしまうかのように見えるが、ヨハネはその真の意味を12章11節で明らかにする。「兄弟たちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とで、/彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」黙示録において竜はサタンを表し、獣(ローマ帝国)を支配する存在である。獣との戦いは究極的にはその背後にいる竜との戦いであるが、教会は竜に打ち勝つ。それは殉教の死を通した勝利であった。つまり、表面的には獣が聖徒たちに勝利しているように見える迫害と殉教の現実そのものが、獣に対する勝利なのである。

このような、死に至るまで忠実な証しによる教会の勝利が、屠られた小羊キリストによる悪への勝利とまったく並行的に語られていることに注意しなければならない。キリストは黙示録において真実な「証人」(martys)として描かれている(1:5、3:14)。神の真理に対して十字架の死に至るまで真実に証しをすることこそが、キリストが地上の悪に打ち勝つ方法であった。そして、このようなキリストの姿が、キリスト者が悪と戦う際の模範となるのである。

このことが明確に描かれているのが14章1節である。「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。」シオンの山(エルサレム)は伝統的に終末の戦いの場所とされるところであり(イザ29:6–8、31:4、ゼカ14:4–5、ソロ詩17:21–25)、そこに小羊が立っているという姿勢も戦いの文脈を連想させる(4エズ13:35参照)。小羊とともにいる14万4千人の人々は象徴的に神の民全体を表しているが(144,000=12✕12✕1,000)、彼らが小羊とともにいる、ということは、教会は小羊キリストに従う軍隊であることを意味する。「この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く」(4節)のである。この小羊の軍隊が戦う相手は、13章に登場した獣である。13章で描かれていた獣が聖徒たちに打ち勝つという地上の現実は、神の視点からすると、小羊に率いられた軍隊の勝利なのである。そしてこの後で、これもローマを表す「大バビロン」の崩壊が語られる(8節)。

このように、黙示録では神の民である教会に対して、地上の悪の力と戦うように明確に呼びかけられている。ユダヤの黙示思想において、終末における悪との戦いに関して2つの系統があるとボウカムは言う。一つは神(あるいはその天使たち)のみが戦うという系統、もう一つは神(および天使)とともに神の民も戦うという系統である。現存する黙示文学においては前者のタイプが圧倒的に多く、神の民が実際に最後の戦いに参加する記述はほとんどない。神の民が終末の戦いに参加する稀な例は死海文書の「戦いの巻物」(1QM)とヨハネの黙示録である。しかし、「戦いの巻物」が神の民が実際の物理的戦争を行うと述べるのに対して、ヨハネはそれを比喩的な戦いと再解釈する。クリスチャンの戦いは、剣によるのではなく、証しと殉教によるのである。

このような「聖戦」概念の再解釈は、先に述べたメシア概念の再解釈からの論理的帰結ということができる。小羊として支配するイエスに従う者たちが形成する共同体は、この世界の権力に対する根本的な挑戦を突きつける。しかしそれは物理的な暴力による戦いによるのではなく、忠実な証言を通して行われなければならないのである。

このように、黙示録におけるキリスト者の戦いは、この世の悪の力に対して、死に至るまで忠実な証言を通して戦うものであることが分かる。それは創造者である唯一の神のみを礼拝すべきであるというメッセージである(黙12:7)。それは悪に対する積極的抵抗であるが、徹底して非暴力的に行われるものである。

しかし、ここで一つ問題が生じる。たしかに黙示録では、キリスト者が悪に対して暴力をもって抵抗することはない。しかし、同時に彼らは神に対して正義を求めて叫ぶ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」(6:10)。そして実際、その後の黙示録のナラティヴの中で、神による世界のさばきが描かれていくが、それらの記述は暴力的描写に満ちているのである。黙示録の読者はこのような神による暴力についてどのように考えたら良いのだろうか。また、キリスト者はこのような文字通りの暴力的さばきを求めて神に祈ることが許されるのだろうか。この問題について、次に見ていくことにしよう。

IV. 小羊の勝利:黙示録における神/キリストの戦い

A. 黙示録における「平和」

黙示録における神の「暴力」について考える前に、神と平和の関係について考察する。黙示録において「平和」(eirēnē)という語は2箇所にしか登場しない。1:4と6:4である。

ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和(eirēnē)があなたがたにあるように。

黙示録1:4-5

1章4節の平和は、書簡風の前書きにおける祝福の言葉の中で用いられる。著者であるヨハネは、読者に対して神と御霊とキリストから恵みと平和があるようにと祈る。したがって、神と聖霊とキリストは平和をもたらす存在として描かれている。この平和は旧約聖書的なシャロームを表していると考えられるが、アウグストゥスが世界に「平和」をもたらす存在として称賛されていたことと比較することができる。

3 小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。 4 すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和(eirēnē)を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。

黙示録6:3-4

6章4節では、小羊キリストが神から手渡された巻物の7つの封印を解いていく描写の中で現れる。第2の封印が解かれた時、赤い馬が現れ、その乗り手は「地上から平和を奪い取」ることが許された。ここで書かれている内容は、1章4節で語られたことと逆のことを意味しているのだろうか。そうではない。ここで言及されている「平和」は、ローマ帝国による偽りの「平和」を指している。圧倒的な武力を背景とした恐怖によって成り立っている表面的な「平和」が失われた時、人々の本性がむき出しになり、彼らは互いに殺し合うようになる。つまりアウグストゥスによって達成されたPax Romanaが覆されるのである。

以上をまとめると、ヨハネがこの2回のeirēnēへの言及によって伝えようとしているメッセージは、終末における神のさばきによって、ローマの偽りの「平和」は奪い取られる、しかし真の平和は神から、ご自身を信頼する人々に与えられる、ということである。つまり、ローマの「平和」は神の平和によって置き換えられるのである。

それでは、神の平和とはいかなるもので、どのようにして達成されるのだろうか。それはローマの「平和」のように、暴力によって勝ち取られるのだろうか。ここで神のさばきとその暴力的表現について考察しなければならない。

B. 神による「暴力的」さばきの描写

1.封印・ラッパ・鉢のさばき

黙示録6章以降の神のさばきについては、7つの封印(6:1–8:5)、7つのラッパ(8:6–11:19)、7つの鉢(11:15–16:21)という7のサイクルが3巡する形で描かれる。ただし、これらは時系列に沿って連続的に起こっていく出来事を単純に記述したものではなく、同じさばきのプロセスを何度も繰り返しながらクライマックスに近づいていくようなやり方で描写されている。すなわち7つの封印はさばきの準備を、7つのラッパは部分的・警告的さばきを、7つの鉢は最終的なさばきを表している。さらに、各サイクルの最後の要素では地震や稲妻など、旧約聖書の神顕現の際に用いられる描写を使った最終的なさばきを思わせる内容が語られていることから、この3つのサイクルが入れ子状になった構造を持っていると考えられる。すなわち、第7の封印の中に7つのラッパが、第7のラッパの中に7つの鉢が含まれるのである。

これらのさばきの多くは出エジプトのできごとを中心とする、旧約聖書あるいはイエスの教えに基づく定型的な表現で記述されている。したがって、個々の描写を文字通り受け取るのではなく、これらの描写が全体として何を伝えようとしているのかを考えなければならない。7のサイクルを通して語られているのは、神はこの世界の悪に対して確実なさばきを下されるということである。しかもそのさばきは段階的に警告を伴って行われ、人々が悔い改めて悪から離れることを絶えず促しながらなされる。つまり、これらのサイクルは、神のさばきが確実に来ることを述べているが、それが具体的にどのようになされるのかは述べていないのである。

2.再臨のキリスト

黙示録において、神の最終的なさばきはキリストの再臨とそれに続く戦い(19:11–21)において描かれるが、ここは黙示録の中でも最も暴力的な箇所の一つである。

11 そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。 12 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。 13 また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。 14 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。 15 この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。 16 この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

黙示録19:11–16

ここで描かれている白馬の騎手はキリストを指している。冒頭で引用した『レフトビハインド』シリーズにおける再臨のキリストの描写はこの箇所の記述の字義的解釈に基づいているが、すでに述べたように、このようなキリストの「獅子」的描写は「小羊」的に再解釈する必要がある。しかも、この箇所のテクスト自体、そのような解釈を要請するのである。

まず、このキリストは「血に染まった衣を身にまと」っていたとあるが(13節)、この時点でまだ戦いは始まっていない点に注目すると、この血は敵の返り血ではなく、キリストご自身の十字架の血であると考えることができる。これはキリストに従う聖徒たちが「小羊の血」によって勝利するのと同様である(12:11参照)。

さらに、このキリストは敵を打つための鋭い剣を持っているが、それはその手に握られているのではなく、口から出ているとされる(15節。1:16参照)。したがって、この「剣」は文字通りの剣ではなく、キリストの口から出ることばを表していると考えられる。キリストは「『誠実』および『真実』」(pistos kai alēthinos)と呼ばれる(11節)。この表現は3章14節でキリストが「誠実で真実な証人」(ho martys ho pistos kai alēthinos)と呼ばれていたことと対応する。つまり、再臨のキリストは何よりも証し人として到来し、悪と戦うのである。

ここまでをまとめると、再臨のキリストはご自分の十字架の死という証しのことばをもって悪に対する最終的なさばきを行うということになる。このような非暴力的な悪との戦いのメッセージが、伝統的な聖戦の表現に包まれて語られている。たとえば15節に出てくる諸国民を牧する「鉄の杖」は詩篇2:9への引喩、「ぶどう酒の搾り桶を踏む」はイザヤ63:2–3への引喩である。しかし、読者はこれら外側の「表現」とその中で語られている「メッセージ」を区別して読み解かなければならないのである。

19章17節以降では、キリストと悪の勢力との戦い(いわゆるハルマゲドンの戦い)が描かれるが、これも伝統的表象を用いて描かれている。17節から天使が告知する神の大宴会の描写はエゼキエル39:17–20で描かれる終末の戦い後の宴会への引喩である。19節から戦いの様子が描かれるが、実際の戦闘の様子は描かれず、ただその結果のみが示される。ここでも、意図されているメッセージは、キリストと聖徒たちは「あの獣と、地上の王たちとその軍勢」すなわち神の主権を否定する地上の抑圧的権力に打ち勝つということである。その方法は、これまで見てきたように、キリストの証しに基づく積極的かつ非暴力的抵抗である。キリストの口から出ている「剣」(21節)は、15節におけるのと同様、その真実な証しのことばであると考えられるので、「残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた」という21節の描写は、文字通りの暴力的戦いの描写ではありえない。そうであるなら、20節で獣と偽預言者が「捕らえられ」、「火の池に投げ込まれた」とあるのも比喩的に理解すべきである(火の池については後述)。したがって、ハルマゲドンの戦いを「世界最終戦争」のような字義通りの戦いと捉えるべきではない。

3.最後の審判

黙示録による最終的なさばきは19章と20章に登場する「火の池」のイメージで語られる。この火の池には獣と偽預言者(19:20)、悪魔(20:10)、死とよみ(20:14)、いのちの書に記されていない死者(20:15)が投げ込まれるとされる。

これらの記述にはいくつもの曖昧な要素がある。火の池の中で永遠の苦しみを受けるとされているのは悪魔・獣・偽預言者という「悪の三位一体」のみであり(20:10)、人間については同様の説明はない(20:15)。しかも、これまで見てきたように獣がローマ帝国(あるいは歴史上の邪悪な帝国一般)だとすると、それが火の池で永遠に苦しむというのは字義的には理解困難である。さらに死とよみが火の池に投げ込まれるというのも明らかに比喩的表現である。だとすると、死者が火の池に投げ込まれる描写も慎重に解釈しなければならず、何らかの比喩的表現である可能性を排除すべきではない。

このさばきの主体は「大きな白い玉座」に「座っておられる方」である(20:11)。これが神を指すのか、キリストを指すのか、それともその両者なのか判然としない。黙示録においてはしばしば神とキリストのアイデンティティの区別が曖昧である。しかし、その答えがどれであったとしても、ここで語られているメッセージに違いはない。なぜなら神と小羊キリストはどちらも王座について支配する存在だからである。このことは、神の世界統治はすなわち小羊の統治であることを示している。マイケル・ゴーマンは次のように述べる:

黙示録は獅子と小羊で象徴される2つの競合するキリスト論と神論――力のそれと弱さのそれ――を含んでいるわけではない。むしろ、黙示録は小羊として(小羊であるにもかかわらず、ではなく)統治する獅子として、キリストを提示しているのである。このことはまた、黙示録は神を小羊を通して(小羊の存在にもかかわらず、ではなく)統治する存在として提示していることを意味する。「小羊の力」は「神の力」であり、「神の力」は「小羊の力」である。

Reading Revelation Responsively

そうであるなら、神の終末的審判においても、それは暴力的な力の行使によるのではなく、「小羊的な力」すなわち非暴力的抵抗と自己犠牲的な愛の実践によると考えることができる。悪の力を最終的・決定的に滅ぼすのは愛の力なのである。

この「さばき」が実際にどのような形でなされるのか、黙示録の象徴的表現から正確に読み解くことは困難である。一つの解釈として、悪の力がそれ自体に降りかかるような形で、悪が崩壊(自滅)していくというものがある。神の「さばき」とは人間を滅ぼそうとする悪の力からの守りを取り去ることであるとする考え方もある。あるいはこれらの組み合わせなのかもしれない。いずれにしても、黙示録の全体的な主張――悪の力に対する非暴力的抵抗――からして、次のように結論付けざるを得ない。つまり、黙示録の暴力的な最終的審判の描写は、神が悪に最終的に、決定的に勝利することの象徴であり、神が実際にそのような仕方で地上の悪を滅ぼすということを意味しているわけではない。したがって、キリスト者は神が現実の暴力を用いて敵を滅ぼすことを祈るべきでもない、ということになる。むしろ我々が祈り求めるべきは、キリストが十字架で示されたような自己犠牲的なアガペーの愛によって世界の悪が克服されていくことである。

V. 結論

ウォルター・ウィンクはバビロニアの創造神話から今日のナショナリズム、さらにはエンターテインメントに至るまで、人類の歴史に深く浸透している「贖いの暴力の神話」について語る(Engaging the Powers)。悪に勝利して平和を実現するためには暴力を用いなければならないという、人類社会にあまりにも深く根付いた考え方は、ヨハネの黙示録がキリスト教の歴史の中で繰り返し誤解され続けてきた一因と思われる。スティーヴン・フリーセンは「黙示録による力の評価はあまりにも通常の人間的営みに反するものであるため、歴史上のほとんどの教会はヨハネに同意してこなかった」と述べている(Imperial Cults and the Apocalypse of John, 216)。

しかしここまでの考察から、発表者はローレン・ジョンズの次の結論に同意するものである。「黙示録の神学は平和の神学として特徴づけることすらできる。ただし、その平和が対立の不在としてではなく、悪に対する非暴力的抵抗として定義される場合のことであるが」(The Lamb Christology of the Apocalypse of John, 203)

黙示録はローマ帝国という特定の帝国に対する抵抗を呼びかけているだけではない。それは(力による支配と経済的不平等をもたらす)あらゆる形の帝国に反対する。唯一の正当な支配はキリストの支配であり、それは自己犠牲的な愛に基づき、弱さと苦しみと忍耐を通して実現するのである。したがって黙示録では神の全能性が根本的に再定義されている。神が「全能」であるとは、反対する者を力で圧倒して何でも望むことを行うということではなく、弱さを通して逆説的に悪に勝利することができる、ということである。ここには地上に正義を打ち立てるためには「正しい」暴力が必要であるという「贖いの暴力の神話」がはっきりと拒絶されているのである。

黙示録がさまざまな象徴的表現を駆使したナラティヴとして書かれているのは重要である。それが作り出す象徴世界は神の視点から世界の現実を見、その真理にしたがって行動するようにと神の民を促す。その象徴世界は読者を変容させる。私たちは世界の現状(権力による抑圧、社会的不正義)に対して積極的に抵抗するように命じられるが、それは暴力や強制によるものではなく、忠実な証人たるキリストを模範とし、キリストがなされたように証しと殉教を通してなされなければならない。

したがって、私たちがどのような象徴世界を受け入れ、どのように変容されるかにおいて、キリスト論は決定的な役割を持っている。すでに見たように、ユダヤ教におけるダビデ的王としてのメシア像の特徴は、悪の力を暴力で滅ぼすことであった。そしてそのようなメシアへの期待は、ローマに対する暴力的抵抗へと民衆を駆り立てていった。しかし、メシアとしてのイエスの最も特徴的な点は、この暴力的・戦闘的側面がまったく見られないことであった。初期キリスト教徒がローマに対する暴力的抵抗を行った明確な記録が皆無であることの最大の理由は、ここに求められるであろう。非暴力的なキリスト論は、非暴力的なキリスト教倫理の基礎となるのである。

リチャード・ヘイズは、新約聖書正典全体を特徴づける3つの焦点イメージとして、「共同体」「十字架」「新しい創造」を挙げる。ヘイズはさらに、新約聖書の倫理としてこの3焦点を含んだ要約ナラティヴを次のように提案している。「新約聖書は神の民の契約的共同体に対して、キリストの十字架に参与するように招いている。その際、イエスの死と復活が彼らの共同生活が神の新創造の先触れとなるような形で行われるのである」(The Moral Vision of the New Testament, 292)

本発表で考察してきた黙示録の平和論は、まさにこのようなナラティヴに適合する。黙示録は神の民としての教会共同体に対して、小羊キリストの十字架の模範に倣う形で悪の力に抵抗しつつ、新天新地の到来を待ち望むように呼びかけている。したがって上記要約ナラティヴの「新約聖書」を「黙示録」と言い換えても全く問題ない。このことは、黙示録の神学や倫理、特に平和論が新約正典の中で何ら特異な存在ではないことを示しているのである。

(以上)

なお今回の研究会の録画とフルバージョンのレジュメは福音主義神学会のホームページで6月いっぱいまで公開されています。

 

 

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