あらゆる民に

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「あらゆる民に」

廣石 望
創世記12,1-4;

I

 本日のテキストは、マルコ福音書で、イエスが「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」という神殿崩壊預言を行い(マルコ13,2)、それはいつ起こるのかと問う弟子たちにイエスが返答する場面に含まれます。

 このイエスの預言は、彼の死後およそ35年後に起こった第一次ユダヤ戦争(紀元66-70年)で成就しました。それはユダヤ人による対ローマ武装独立闘争でした。開戦当初はユダヤ側が有利に戦いを進めましたが、しだいにローマ軍が巻き返して結果的にユダヤ側の敗北で終わりました。そのさいエルサレムのヤハウェ神殿がローマ軍によって破壊されたのです。

 戦争以前のエルサレムの原始キリスト教団では、ユダヤ人キリスト教が主流を占めていました。ヘロデ・アグリッパ王の死後、ローマの直轄領に編入されて、現地では異教徒やローマ支配に対する反感もあったのでしょうか、原始教団の周辺からは、パウロの異邦人伝道に対する対抗伝道すら組織されています。当時のキリスト教はじつに多様で、内部にも緊張を孕んでいました。

 しかしいったん戦闘が本格的に始まると、エルサレム原始教団の人々は、おそらくイエスの非暴力の教えに従って戦闘を忌避し、エルサレムその他の都市から脱出したものと思われます。

 破壊されたエルサレムのヤハウェ神殿は、現在に至るまで西壁の一部が残されています。「嘆きの壁」です。つまり「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」というイエスの預言は、完全には当たりませんでした。それだけに、この崩壊預言は本当のイエスの言葉である可能性が高いと思われます。

 マルコによる福音書は、この戦争の余燼がくすぶり続けている紀元70年代に成立したのではないかという学説があります。つまりマルコ福音書13章も「預言」という体裁をとりながら、じっさいには紀元70年の破局を知っていると思われるのです。

 マルコ福音書の成立地がどこであったかについては、たくさん学説がありますが、パレスティナ北方およびシリア南部がひとつの可能性です。ユダヤ戦争の初期、この地域ではユダヤ系住民と非ユダヤ系住民の間で殺し合いが頻発しています。そして戦争期にはユダヤ・ガリラヤ地方から大量の難民が流入したことでしょう。

 マルコ福音書には、イエスが荒れ野に留まっている群衆について「飼い主のいない羊のようなありさま」を憐れんだとか(6,34)、「もう3日も私といるのに、食べ物がない」(8,2)といった描写が出てきます。まるで難民キャンプのようです。

 

II

 マルコ福音書のイエスは「私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と言います(13節)。

 異教徒から見れば、キリスト教徒は帝国ローマに歯向かった「反逆者ユダヤ人」の一部であり、他方でユダヤ人から見れば、キリスト教徒は異教徒と通じ、肝心なときに仲間を棄て敵前逃亡した「裏切り者」です。キリスト教徒は暮らしていたそれぞれの地域社会で、家族や親族の分裂や裏切りを体験したことでしょう。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり…」(12節)とあるように。彼らは、誰からも疑わしい目で見られる立場にありました。

 しかしマルコ福音書のイエスは、戦争があってもそれは「産みの苦しみの始まり」(8節)であり、「まだ世の終わりではない」(7節)と言います。

 そのときには「私の名を名乗る者」――これは偽物メシアのことでしょうか、それとも神の名による預言活動のことでしょうか――が登場して人々を「惑わす」、つまり間違った方向に進ませるだろうと言われます。

 戦争と戦争の噂が、私には聞こえます、しかも自分の国から。――憲法の平和条項を変えて〈戦争のできる国〉にするため、まずは96条を改定しようとする試みがありました。集団的自衛権の行使を認めるための法案「国家安全保障基本法案」が現在、検討中です。また軍隊を動かすには軍事機密が生じるため、「特定秘密保護法案」というものが提出されています。しかし何が「秘密」に相当するのか、誰にも知らされない危険性がありそうです。あるいは日本版「国家安全保障会議(NSC)設置法案」というものもあります。

 これらの法案が成立してゆけば、やがては政教分離の原則すらも放棄されるだろうと思われます。国家のために死ぬ兵士たちや一般人を祭るために、政府は何らかの国家宗教を必要とするからです。そのとき、その他の宗教団体には、国策に協力することが要求されることでしょう。こうして信教の自由は実質的には反故にされます。

 

III

 私たちは、いったいどうしましょう?

 対ローマ戦争が「世の終わり」でない、とイエスが言うのは何のことでしょうか(7節)? 基本的には、戦争そのものより後にもっと大切なことが起こるということでしょう。それでも「終わり」と訳されたギリシア語「テロス」は、本来「目的」「終点」の意味です。すると、この世界が目指すべきものを「戦争」によって達成することはできない、という意味合いを含んでいると理解することもできるかと思います。

 マルコ福音書によれば、キリスト者たちは「地方法院」や「会堂」に引き渡されます(以下、9-11節参照)。地方法院とは周辺のローマ世界の法治機関のこと、会堂はもちろんユダヤ人共同体の法治機関のことです。そこで「総督」や「王」たちの前で、彼らは釈明を求められ、「打ちたたかれる」。しかし、その中にあっても恐れることなく、そのとき与えられることをそのまま話すよう言われます。そのとき君たちの口を通して語るのは「聖霊」だからと。――こうして、「私の後に従いたい者は、自分を棄て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(8,34)というイエスの命令が実現するのでしょう。

 弟子たちが行う積極的な行為は「証しをする」こと(11節)、そして「最後まで耐え忍ぶ」ことです(13節)。迫害状況にあるからでしょうか、できることはかなり限られています。

 でも、もうひとつ、彼らが積極的に行うよう期待されていることがあります。それが、「あらゆる民に、まず福音が宣教されなければならない」という言葉です(10節)。四面楚歌の状況にあって、「あらゆる民に」という視野の広さは、私には衝撃的です。かつて民族の始祖アブラハムに神が与えた「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世記12,3)という約束が、今こそ実現すると彼らは考えています。「神の子イエス・キリストの福音」(1,1)が世界中に通用すると信じているのです。

 

IV

 圧倒的に不利な状況の中で、いったいどのようにして弟子たちは世界大の視野をもつことができたのでしょうか? 今の時代に、私たちに同じような姿勢を可能にしてくれるようなものがあるとすれば、それは何でしょうか?

 そのヒントになるかもしれないと思う言葉をご紹介します。

イエス・キリストにおいて、「この世界の、神との和解が起こった。破壊でなく和解によってこの世界は克服される。理想や綱領ではなく、また良心や義務や責任や道徳でもなく、ただ完全な神の愛だけが〔世界の〕現実に直面することができ、それに打ち勝つことができるのである」。

 ディートリヒ・ボンヘーファの言葉です。続けます。

「再び言うが、それを成し遂げるのは一般的な愛の観念などではなく、イエス・キリストにおいて実際に生きられた神の愛である。世界に対するこの神の愛は、現実から逃れて浮世離れした高貴な魂の中に逃避したりはしない。この世界の現実を経験し、きわみまで苦しみを受ける。この世界はイエス・キリストの肉体に取り付いて徹底的に暴れる。しかし、苦しめられるこの方が、この世界を赦すのである。このようにして和解が起こる」。
(村上伸『良き力に守られて』192頁に引用された『現代キリスト教倫理』22-23頁)

 「苦しめられるこの方が、この世界を赦すのである。このようにして和解が起こる」。私たちにどのような「終わり」が訪れるかは分かりません。しかしそのときが来るまで、「あらゆる民に」キリストの福音を宣べ伝えつつ、彼が作りだした和解の内にごいっしょに歩みたいと願います。

 

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