I
今日のテキストであるルカ福音書のエピソードは、「主の晩餐」と「ペトロの離反預言」のエピソードに前後を囲まれています。弟子たちは、あろうことか主の晩餐の席で、「自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか」という議論を始めるという設定です。イエスとのこの上ない一体性を強調する「主の晩餐」と、この一体性が脆くも崩壊してゆく「ペトロの離反」との中間に、「上に立つ人は仕える者のようになりなさい」というイエスの教えが置かれています。分裂の危機における一致の基盤が何でありうるかという問いに示唆を与えるテキストだと思います。
そのさい「食卓」という場面設定が一方では「奉仕/給仕」、他方では「権力/支配」という二つの意味関連を生み出すための象徴的な役割を演じています。
今日は教会暦でいう終末主日です。イエスの残した教えが、私たちの終わり、目標点とどのように関係するのかを、ごいっしょに考えてみましょう。
II
食卓は地位の序列がはっきりする場所です。イエスが「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか」と述べているとおりです(27節)。さらに席順にも上座と下座があります。こうした社会習慣から、「自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか」という弟子たちの議論が出てくるのでしょう。
イエスの教えは、君たちは「仕える者のようであれ」というものです(27節)。ここで「仕える」と訳されているのは、先に「給仕する者」と訳されていたのと同じギリシア語動詞です。
この教えの論拠は、直前の「主の晩餐」の場面で、イエスが自ら弟子たちに給仕していることにあるでしょう。「これは、あなたがたのために与えられる私の体である」「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」と言いながら(19-20節)。
ルカ福音書は、徴税人や罪人を招いて食事をしているのを批判されたとき、イエスは次のように答えたと伝えています。
「悔い改めさせる」はやや強い訳です。原文は「悔い改めに向けて」です。そして「悔い改め/メタノイア」は元来「考え方を変える」の意ですので、「悔い改めに向けて」を文章全体にかけて、「義人たちではなく、罪人たちを呼ぶために私は来た。すなわち考えを改めるため」と読むことも可能です。そう理解すれば、ポイントは「罪人」を改心させることではなく、〈義人を罪人よりも優先する〉という世間の常識を逆転させることにあります。
さらに「~のような」という表現が頻出することが目立ちます。「いちばん若い者のように」「仕える者のように」(26節)そして「いわば給仕する者」(27節――「いわば」と訳されたのは「のように」とあるのと同じギリシア語)。これは〈じっさいにはもっと偉いのだが、いちおう仕える者のふりをしている〉という意味ではおそらくないでしょう。「~のような」と訳されるギリシア語小辞「ホース」のもう一つの意味は「~として」です。つまり役割ないし機能としての「若輩者」や「給仕する者」が念頭に置かれているのではないかと思います。
じっさい教会活動は会員の無償奉仕によって成りたっています。役員たちは議事、会計管理、建物管理、牧師招聘にまつわる諸手続き、諸行事の運営、建物管理などを行います。奏楽者は週日に何回も教会に来てオルガン練習をします。受付と献金と祈祷のお当番があります。教会学校は毎週欠かさず続けられています。祈り会があり、青年会・ガリラヤ会・壮年会の諸活動があり、建物の内部と玄関回りの清掃、地域の諸集会、互いのための祈りと訪問などがあります。――これらはすべて、若者が年長者に敬意を払うように、仕える者が客人をもてなすようになされているではありませんか!
そのようにして担われる機能や役割の中心的なイメージが「食卓」であり、そのホストがイエス・キリストです。教会は、主イエスといっしょに他者に給仕する共同体なのです。
III
紀元4世紀の中葉、たった2年間だけローマ帝国の皇帝であったユリアノスという人がいます。キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥にあたります。彼はファミリーが帝国のキリスト教化を推し進めている最中に、ギリシアの伝統文化・伝統宗教を再興しようと試み、後の時代のキリスト教徒から「背教者」というあだ名をつけられました。
その彼が皇帝として、小アジアの属州ガラテアの「大祭司アルサキノス」というギリシア宗教の神官に宛てた書簡が残っています。そこに次のような一節があります。
キリスト教に対抗しようとした時の最高権力者が、当時のキリスト教の強さとしてあげているのが、「他者に対する人間愛」「死者の埋葬に関する丁寧さ」そして「よく洗練された生き方の真面目さ」です。キリスト教会は古代世界にあって、「救護所」――原語「クセノドケイア」は〈よそ者を受け入れる場所〉の意――つまり総合福祉センターのようなものだったのです。
その中心にあったのはおそらく説教壇ではなく、「主の食卓」と呼ばれるテーブルだったろうと思います。
IV
給仕と並んで「食卓」がもっている象徴作用に「権力/支配」があります。「異邦人の王たちは彼らに君臨し、命令を発する者たちは慈善者と呼ばれている」(25節参照)――この発言のモデルはおそらくローマ皇帝や属州の民族支配者たちです。
そして王の食卓は、権力の共有を象徴する場所でした。
例えば列王記の末尾に、バビロンに捕えられて37年が過ぎたユダの王ヨヤキンが、新しいバビロニアの王から恩赦を受けたエピソードがあります。「バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ…、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった」(列王記下25章)。
あるいはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが誕生日パーティを開いたとき、彼は「自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催した」とあります(マルコ福音書6,21)。食卓に連なるのは、権力を分有する「王のとりまき」なのです。
同じように、イエスの食卓にも「王権」があります。
「契約する」とあるのは(新共同訳は「ゆだねる」)、主の晩餐でのイエスの言葉、「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(20節)にいう「契約」と同じ語根の動詞が使われているからです。イエスの「新しい契約」は、彼の王権を分有することなのです。
そして、この王国における支配の内容はといえば、
キリスト教会はイエスが「メシア/キリスト」であると告白します、イエスが王であると。なるほどイエスも「私の王国」と言います。しかし玉座に座るのは誰でしょうか。それは意外なことにイエスでなく、12人の弟子たちです。裏切り者ユダにも玉座が用意されていたのでしょう。これは12人の王たちによるイスラエルの共同統治、集団的なメシアニズムです。ガリラヤの漁師や徴税人たちが「神の民」イスラエルの支配者になる、というのがイエスのヴィジョンでした。
これが、主の食卓に「仕える者たち」の未来ないし終着点です。「12人」には教会指導部というイメージがあるかもしれません。しかしその「集団」的性格に注目すれば、むしろ信徒全体を象徴すると理解してよいかもしれません。
V
イエスが分け与える権能を行使する共同統治者がなすべきことは何でしょう。――そこには、イエスが経験した試みにあって彼といっしょに「踏みとどまる」ことが含まれるようです(28節)。では「踏みとどまる」とは、じっさいには何をするのでしょうか。はっきり書かれていませんが、「罪の赦し」の実践であろうと思います。キリストと共に人に「仕え」、彼と共に「支配する」とは、世に罪の赦しと和解をもたらすことでなくて、いったい何でしょう。
ヨハネ福音書の復活者イエスが、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される」と言っているではありませんか(ヨハネ福音書20,22-23参照)。
最初に、私たちの終わり・目標点は何かと問いました。本日のテキストに照らせば、それは主イエスの食卓を中心に「仕える者」として、神の民の「共同統治者」になることにあると言えるでしょう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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