キリストの苦しみ」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

先日の8月15日、敗戦記念日の夜、幾つかの報道番組を見ました。ある番組は、電話アンケートをしていました。司会者が出す質問に視聴者がプッシュフォン形式でイエス・ノーを答え、その集計結果がテレビ画面にそのまま反映されるやり方です。幾つかの質問がありましたが、その中に「あなたは自分が勝ち組みだと思いますか、それとも負け組みですかというものがありました。そしてアンケートの結果、〈負け組み〉と答えた人が圧倒的に多かったのです。ちょっと驚くと同時に、そうなのかと考えさせられました。

人間を勝ち負けで二つのグループに分ける〈勝ち組み/負け組み〉という単純な発想は、もしかすると〈人生は戦いだ〉という考え方と同じくらい古いのかも知れませんが、明らかに現代の日本社会に、よく浸透しているのでしょう。その背景には、社会の圧力が個人の存在を脅かしているという状況があると思います。企業や学校といった集団が生き残りをかけて競争する場合も、リストラに象徴される内部選抜が行われるわけですから、やはり最終的に脅威に晒されているのは個人です。番組では、立派な身なりの男性サラリーマンが、「私が上司の立場ならば、私をリストラするだろう。代わりは他に大勢いると発言していました。これは私の外側に存在する一つの合理的なシステムが、私の存在価値を一方的に測定し、私の運命を決定するということです。

このような社会にあっては、人間関係においても損得勘定が優先するでしょう。個人としての「私の苦しみは余計なものとして排除され、プライドは簡単に潰されることでしょう。強い立場にある者が、目障りな邪魔者に言いがかりをつけては攻撃し、自分こそが正しいと強弁して憚らないことでしょう。〈負け組み〉の人生は、生きるに値しないものと見なされます。しかし、いわゆる〈勝ち組み〉の人たちにも、その微笑の背後に、かすかな不安がつきまとうのではないでしょうか。人の能力には自ずと限界があり、人生に不運はつきものだからです。そして何よりも、他人を信じることができないからです。

これに対してパウロは、先ほどお読みした箇所で、〈自分はキリストに出会って、損得勘定がまったく逆転するという経験をした。そのときまったく新しい信頼関係と新しい生き方が開けた〉と語っています。そんなことが、私たちにも起こりうるでしょうか。

聖書をご覧下さい。7-8節では〈損/得〉という表現が、キリストとの関係で用いられます。この部分の中心的な発言は、「しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった(7節)というものです。「有利であったと訳されている言葉は、直訳すれば「得をしたという意味です。つまり「私にとって得であったすべてのこと、それらを私は、キリストのゆえに、損と見なすようになってしまった。さらに「キリストのゆえに、私はすべてを失ったとは「私はキリストのゆえに、すべてのことにおいて損をさせられたという意味ですし、「キリストを得るとは「キリストを得するという言い方です。つまり「キリストのゆえに、損得の関係がまったく逆転したとパウロは言うのです。

この発言の背後にあるのは、パウロの個人史です。皆さんもご存知のように、パウロはキリストに出会うことで、古い自分に対して死に、新しい自分に生きるという経験をしました。その転機になったのが、いわゆるダマスコ途上の回心の経験です。回心以前のパウロは、神の掟であるユダヤ教の律法を熱心に遵守することに生きがいを見出し、律法を重んじようとしないキリスト教徒を迫害しました。しかし彼は、迫害行為の最中に、天から現れたキリストに出会います。しかもそれは、今や神の命の中に受け入れられたナザレ人イエスが、無残にも迫害されているキリスト教徒の姿に自らを重ね合わせるような仕方で迫害者パウロに現れる、という幻視体験であったと思われます。この経験を介してパウロは、やがてユダヤ民族主義の枠を超えて、異邦人にキリストを宣教する伝道者になりました。

そのパウロは、「キリストのゆえに、私はすべてを失ったと言います(8節)。実際、伝道者としてのパウロの生活は、〈勝ち組み〉が享受するであろう特権的な生活とは、およそ無縁でした。別の手紙で、彼はこう言っています、「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々私に迫る厄介ごと、あらゆる教会についての心配事があります(2コリ11,24-28)。パウロの人生の最期は、皇帝ネロによるキリスト教徒迫害下の帝都ローマにおける殉教であったとする証言があります。これが、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさのゆえに、それ以外のことをすべて「損と見なすに至ったパウロの人生の一側面です。

皆さんは、これではとても引き合わないとお考えになるでしょうか。しかし何れにせよ、〈得をする/損をする〉という表現で、単純な損得よりも、もっと大きなことがらが問題にされていることは分かります。ここで問題になっているのは、今まで通りの生き方をしながら、自分の人格は何の変化も蒙らないままに、ときどき損をしたり得をしたりすることではありません。むしろ生きる意味や根拠に関する問い、つまり私は真の人生に到達できるのか、それとも最終的には偽りの生を生きるのか、という問いがここにあります。イエスも次のように言っていました、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか(マタ16,25-26)。

続いてパウロは、そのような価値の逆転が一定の方向性を持つことについて、こう述べます。すなわち、過去の自分にとって生きる根拠であったことを、現在の自分が「塵あくたと見なしているのは、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるために他ならないと(8-9節)。

先ほど述べたように、あらゆる価値の逆転をパウロに促したのは、彼の個人的な回心の経験でした。これほど劇的な人生の大転換は、誰にでも真似の出来るものではないでしょう。それでも、「キリストの内にある者になることは、すべてのキリスト教徒の目標です。パウロは、彼が個人として生きる人生の目標は、すべてのキリスト教徒の目標と同じだと言っているのです。

ここにあるのは、個人としての「私の生が、共同体としての「私たちの生に結びつく可能性です。実際には皆が似たりよったりの生き方をしながら、それでも各人がバラバラに切り離されて暮らしている「勝ち組み/負け組み式の発想とは、ずいぶん違うように思います。

しかしながら、〈個人の生が共同体の生に結びつく〉というだけでは、会社や国家のために個人を押し殺すことと、つまり過労死や戦争や原理主義やマインドコントロールと、どのように違うのでしょうか。

「キリストを得、キリストの内にいる者として認められるためという目標を述べた文に、その内容を説明するかたちで付加されている二つの文章に、そのことを考えるためのヒントを求めたいと思います。

最初の説明は、「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(9節)という発言です。これは、有名なパウロの信仰義認の教え、すなわち〈人が神の前で義しいとされるのは、功徳を積んだことによるのではなく、神が人に示した慈悲深さの出来事であるキリストを信じることによる〉という教えを、コンパクトに述べたものです。

二つほど、注意して頂きたいことがあります。一つ目は、「義という表現が関係概念であることです。それは神と人、人と人の関係が持つクオリティーに関する発言です。例えば「神は義しいという表現は、神の契約の相手方であるイスラエル民族との関係なしには成り立ちません。また人間関係における義しさとは、「私と「あなたが正面から向き合って、きちんと応答し合う関係のことです。「私と「あなたがすれ違いの関係に生きるとき、私たちの間で「義は失われてゆきます。そもそも一人孤独に生きる人にとって、「義という問題は生じません。

二つ目に注意していただきたいのは、「私には神からの義があるという発言が、「私がキリストの内にある者として認められるためという目的を表現する文の説明であることです。つまり現在のパウロは、「神からの義を、キリストに信頼することを媒介として、「信仰に基づいて持っているのであり、操作可能な所有物として持っているのではありません。「神からの義は希望として与えられているのです。

その上でパウロは、二つの「義を区別します。一方で「律法から生じる自分の義とは、回心以前のパウロが生きる根拠としていたものです。これは、神の要求である律法を実行することで、神の前に私が自力で積み上げる功徳に基づく生き方です。外面的に見れば、それは真面目で、努力家で、宗教的にも立派な生き方に相違ありません。しかしこの生き方は、自分の行動力と業績に基づいて自分の義しさを主張する限りにおいて、自分中心的で自己完結的な生き方、つまり〈勝ち組み〉的な生き方です。他方で「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義とは、回心以後のパウロにとっての生きる根拠です。これは、外側から与えられた信頼関係に基づいて、それに応答しようとする生き方、つまり他者と未来に対して根源的に開かれた生き方です。

ですからパウロによれば、キリスト教信仰とは、自分が達成した過去の業績や現在の地位に最終的な根拠を置かず――それを軽視するという意味ではありません――、むしろ希望と信頼をもって、未来と他者に自分を開いてゆくことを意味します。しかし私たちの心に残るのは、そのような生き方は確かに素晴らしいかもしれないが、パウロの人生が証明しているように、これでは〈負け組み〉に落ち込む危険が大きすぎるのではないか、という疑いではないでしょうか。

V

では、他者と未来に対して開かれて生きることにパウロを促したものは何だったのでしょう。彼は「キリストを得、キリストの内にいる者として認められるためという文章に対する二番目の説明として、こう言います、「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです(10-11節)。

ギリシア語の本文を見ると、まず「キリストを知るという表現が現れ、つぎにそれがキリストの「復活の力を、そして彼の苦しみを共有することを知ることであると説明されています。パウロが「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさ(8節)と述べたことの内容は、キリストの復活と苦難を結び合わせて理解することだったのです。そして、そのような形でキリストを知ろうとするとき、パウロは、キリストの「死の姿にあやかりながらそうすると言います。つまりキリストの復活に到達するという未来の希望は、現在の生において、彼の死の形に似せられてゆくというプロセスの中に現れると言うのです。

さて、何だか高邁な理想が述べられているように感じると同時に、もしかすると、この発言は要するに負け犬の遠吠えではないのか、という疑問をお持ちになる方もいるのではないでしょうか? パウロの生き方は、どのように〈負け組み〉の負け惜しみから区別されるのでしょうか?

「キリストの苦難の具体的な内容については言及がありません。しかしこの表現で、最も恥ずべき死の形として恐れられた十字架刑という死に極まるイエスの生の全体が意味されていることは間違いありません。それは使徒信条が、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けという一文で、イエスの地上の生を要約することに似ています。すなわち、キリストの一生とは、一言で言えば「苦しみを受けるという人生であったと言うのです。

苦しみは、その人ひとりひとりのものです。他人に引き受けてもらうことはできません。それでもパウロは、「キリストの苦しみにあずかることを知りたい、つまりキリストの苦難を共有するすべを知りたいと言います。なぜでしょうか。それは神の力によって新しい命を受けたイエスが、生前に、人々の苦しみに深く共感しつつ生きたからでしかあり得ません。だからこそ、イエス自ら深い苦しみの中を通り抜けたという記憶は、パウロにとって希望の根拠なのです。

敗戦記念日の数日前に、広島の平和記念公園にある「原爆の子の像に捧げられた折鶴が大学生によって放火されるという事件がありました。犯人は警察の取り調べに対して、「留年もした上に就職活動もうまくいかず、むしゃくしゃしてやったと供述したそうです。自分が〈負け組み〉になることに我慢がならなかったのでしょう。そのとき、2歳で被爆し、12歳で放射能障害による白血病を突然に発症して死去した佐々木禎子さん、サダコちゃんの苦しみと願いに共感する人々の祈りである折鶴に攻撃衝動が向けられたことは、まことに象徴的です。〈勝ち組み/負け組み〉の論理の前で、個人の苦しみは、システムの潤滑な運用を邪魔するエラーメッセージのようなものに過ぎないからです。そんなものに多くの人の共感が集まることが、無性に腹立たしいからです。

サダコちゃんは、不治の病を得て入院した時に、治りたい一心で折鶴を折り始めました。「自分で折らないといけないと彼女は言ったそうです。彼女は、この苦しみを自分で引き受けようとしたのです。彼女の死を記念する像を立てるための街頭募金には、子どもたちが立ちました。サダコの物語は、たくさんの国の言葉に訳されています。アメリカでも、10年ほど前に、子どもたちが立ち上がって記念碑を立てましたね。そのとき、核兵器開発の中心であったロスアラモスの町に記念碑を立てようという子どもたちの願いを、大人たちは拒絶しました、「原爆は悲劇をもたらす戦争を終わらせた。私たちの町がたくさんの子どもを殺した兵器を製造した町として記憶されるなんて、とんでもないと言って。ですから記念碑は、近くの小さな町の小学校の校庭に立っています。

子どもたちが平和を願いながら折鶴を折るという行為は、パウロが、キリストの復活に到達することを願うがゆえに彼の苦しみを共有したいと言うことに、深いところで繋がっていると思います。イエスの死も、罪なき者の非業の死でした。

最後にもう一つ。ユダヤ人とアラブ人が血で血を洗う紛争を続けているパレスティナから、肉親を虐殺された三人のユダヤ教徒とイスラム教徒が、手に手をとりあって広島を訪れたという報道がありました。彼らは、そのときこう言ったのです。「人間的な感情としては、憎しみを消すことは難しい。しかし広島の人たちは、憎しみを乗越えて和解と平和を訴えている。広島は私たちの希望なのです。キリストの復活の力とその苦しみに参与することを知りたい。彼の死と同じ形にされながら、そのことを知りたい。そうすることで、死者たちからの復活に到達したいというパウロの願いは、平和を願う世界中の人々の願いにつながっています。

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