「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(14)。
これはどういうことだろうか。1章1節の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」を受けていることは確かである。それでもまだ、「言」が何を意味しているかはっきりしない。しかし、それが旧約聖書・創世記の冒頭の言葉と関連しているということが分かれば、その意味は明らかになるだろう。
創世記1章1節には、「初めに、神は天地を創造された」とあり、続けて「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」(1)と書いてある。それから神は、同じように「…あれ」という言を発して大空や大地を造り、あらゆる植物を造り、太陽や月や星を造り、魚や鳥、家畜や爬虫類、そして最後に人を造った、という。
現代科学の立場から、「とても受け入れることはできない」と感じる方もいるだろうが、創世記はここでこの世界がどうして「ある」のか、その意味についての信仰を表明しているのである。天地万物は偶然にできたのでも、無意味に「ある」のでもない。そうではなく、「…あれ」という神の言、つまり、神の意志、あるいは神の愛によって存在するのだ。「初めに言があった」というのは、そういう意味である。
現代科学の説明によると、地球上に生命が発生してから現在に至るまで、40億年という時間が経っているという。そして、地球上には生命進化のための望ましい条件が揃っていた。地球と太陽の距離が1億5千万kmであること。地球が太陽の周りを一年かけて「公転」していること。その地球の「自転」の回転軸が太陽光線に対して約23度の傾きを持つために四季の変化を生じること。さらに、地球を構成する約90種の天然元素。これらの諸条件の内たった一つ欠けても、生命の発生・進化は不可能だったに違いない、と言われる。現在、皆さんや私がこうして生きているのはそれら諸条件のお陰である。
これは「偶然」と言うには余りにも不思議なことではないか。「天の配剤」という言葉があるように、私は、ここには大いなる方の意志が働いていると信じる。ヨハネが「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言うのは、この「神の意志」のことである。
私は今、天地万物が存在するのは偶然でも無意味でもなく、「存在せよ」という神の言、つまり、神の意志、あるいは神の愛によると述べた。あの天地創造の記事を読む度に、私はこの神の意志と愛を感ぜずにはおれない。
神は「光あれ」と言われた。神は暗闇ではなく、光がこの世界を照らすことを望み、光を愛したのだ。神はまた、「水と水を分けた」(6)。この場合、「水」は世界を脅かす「混沌」の象徴だが、神はこの混沌を制御することを望まれた。混沌の力よ、お前は存在してもよい。だが、無闇に暴れ回るな。これが神の意志である。洪水や地震や噴火などの災いよ、限度を超えるな。絶望よ、若者を支配するな。
同様に神は、植物や動物の生命を、彼の「言」によって創造した。「生きよ! 」というのが神の意志である。私の想像力を膨らませて言うなら、「命の母である海よ、汚染されない、清らかな水でもろもろの命を育め。地上の草よ、穀物よ、果樹よ、生い茂り、良い実を結んで命を養え。鳥よ、天の大空を飛び、美しく囀って自由の喜びを教えよ。魚よ、水中のあらゆる生き物よ、水の中に群がって豊穣な生を称えよ。水の中の怪物(レビアタン)よ、お前でさえも生きることを私は望む。柔和な目をした草食動物たちよ、他の動物を食べずに生きることの平和を証しせよ。肉食獣もまた、終わりの日には「牛のように藁を食べる」という約束の下に生きよ。とりわけ、神の形にかたどって造られた人間よ、すべての造られた命を守る園守りとして生きよ。」
これが神の言、つまり、造られたすべてのものに関わる神の意志である。
この「言が肉となった」(14)とヨハネは言うのである。
これは、イエスの誕生のことである。イエスがこの世に生まれたということは、あの神の言、命と平和と希望と喜びを望む神の意志が、世界の歴史の中で、具体的に一人の人間の生と死という形を取って現実となった、ということだ。
イエスは、出会う一人一人を愛した。神が各自に与えられた命を慈しみ、その生が守られて豊かに発展するために祈り、力を尽くした。そのためには、自分だけのことを考えるのではなく、互いに愛し合わなければならない。
神は愛である。愛し合って共に生きることが神の意志である。だから、イエスは「敵をも愛せよ」と教えた。多くの人が「実行不可能」と考えるこの生き方に、彼は命を懸けた。十字架にかけられ、ご自分を殺そうとする人々のために祈りを捧げながら一生を終わったが、これは愛の敗北ではなく、むしろ勝利であったことが三日後に明らかになる。復活! これは神の肯定である。
このような方がこの世に生まれて、実際に生きていたという事実。それだけで、この世界は捨てたものではない。ここに我々の喜びと希望がある。
今日、我々がクリスマスを祝うのは、このことの故である。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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