「帰ってきた放蕩息子」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
2000・4・9

「帰ってきた放蕩息子」

村上 伸
ホセア書 11,1-9 ; ルカ福音書 15, 11-32

これは、広く知られた「放蕩息子」の譬えである。

この譬話は、先週取り上げた「見失われた一匹の羊」(1-7)の話と同じように、ルカ 5,27以下 を基本的な枠組みとしている。即ち、イエスが「徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたり」しているのを律法学者たちに非難された時、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」と答えたという、あの話である。

この思想は、今日のテキストの直前にある「無くした銀貨」(8-10)の譬えでは、 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10)という言い方になり、そして今日の所では、「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」(24節、32節)という、感情豊かな言葉で表現される。

また、「徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたり」していると言ってイエスを非難した律法学者たちは、今日の話では「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節)と言って怒った兄に相当する。だから、この三つの譬話は、根っこの所で同じ内容なのだ。

 

さて、以上のことを踏まえた上で、「放蕩息子」の譬えを読んでみたい。

二人の息子がいた。弟の方がちゃっかりしていて、いわば遺産の「生前贈与」を父親に要求する。申命記 21,17 には遺産分配に関する規定があるが、それによると、この場合、長男には三分の二、次男には三分の一が与えられる。古代社会でしばしば見られるように、ユダヤでも長子は殊のほか重んじられるからである。但し、「生前贈与」の場合は、二人の相続分はもっと少ない。

父親は、弟の要求を入れて「財産を二人に分けてやった」(12節)。「財産」というのは、もちろん現金ではない。家畜や家屋敷だ。どういう比率で分配したのか、それも明らかではないが、とにかく次男の要求は通ったのである。彼はすぐさま、自分の分け前の「全部を金に換えた」(13節)。こういう場合、人は呆れるほど素早く行動するものだ。そして、彼はお定まりのコースを辿る。さすがに「近くではヤバい」と思ったのだろう、彼は「遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(13節)。その放蕩の様子を、レンブラントは印象的に描いている。

だが、「泣きっ面に蜂」と言うか「弱り目にたたり目」と言うか、「その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」(14節)。困り果てた彼は、豚の番人に身を落とす。レビ記11章 の「清潔規定」によると、豚は「汚れた」動物とされているから、ユダヤ人は決して食べないし、もちろん飼うこともしない。だから、彼が豚飼いにされたということは、最後の自尊心まで捨てたことを意味する。つまり、どん底に落ちたのだ。豚の餌の「いなご豆」でも食べたいと思う程、彼は飢えていた。

その時になって、「彼は我に返った」(17節)という。空腹に耐え兼ねて、父親の家で経験した豊かな暮らしのことや、大勢の雇い人にも食べる物がふんだんにあるその状況を思い出したのである。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ」(17節)。

 

一昨日の新聞で面白い記事を読んだ。上越市のある小学校が毎年、学校で栽培・収穫した食物だけで冬の4ヶ月間を乗り切ることを想定した実験をしているというのである。5年生の子供たちが田畑で育てて収穫した米、ジャガイモ、かぼちゃなどの食物をまとめ、全体を4ヶ月の日数120日で割り、さらに5年生の人数で割る。すると、一人当たりの一食分が僅かに60キロカロリーになる。これではあんまりだから、多少おまけをして、雪に閉ざされる11月に、一泊二日三食の「空腹体験」をするのである。その間、ビデオで日本の食糧問題を学んだり、お年寄りを招いて戦争中の体験談を聞いたりする。

この体験をした後は、子供たちの態度が目に見えて変わるという。特に給食の食べ残しがめっきり減る。一般に人は、このような体験から多くのことを学ぶものだ。

 

では、我々の道楽息子は、あのどん底の空腹体験から何を学んだか?

彼は「詫びを入れて父のもとに帰ろう」と決心した。だが私には、この決心はかなり便宜的なものに感じられる。「私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(21節)という罪責告白にしても、「腹一杯食べたい」という、いわば打算的な動機からなされたという印象は拭えない。世間には、このような例はいくらでもある。

だが、「打算があったのではないか」云々ということを、この父親は全く問題にしない。彼にとっては、失われた息子が帰って来たということだけが重要だったのである。そのことを父は一方的な愛をもって待ち焦がれていた。だから、「まだ遠く離れていたのに…走り寄る」(20節)。それに、この喜びようはどうだろう(22-24)。思わず兄の言い分(25-30節)に同情したくなるほどの舞い上がりようだ。

しかし、失われたものに対する一方的な愛。これこそが、この譬の中心である。「見失われた一匹の羊」の話でも、「無くした銀貨」の譬でも、それが見つかったのは、捜す方の一方的な熱心による(ホセア書 11,1-9 )。神の愛とはこのようなものだ。

我々の側の不真実にもかかわらず、一方的に上から、神の側から愛が注がれている!このことを究極的な形で示したのが、イエスの十字架であった。

そして、来週はその受難週である。



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Emmanuel

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