聖書を深く味わうために 足のともしび、道の光なるみことば

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

二〇二三年に出版され、広く用いられている『聖書難問注解 旧約篇』。その新約篇がついに登場する。この機会に、あらためて新約聖書をじっくりと読み、理解を深めたい。

 

大阪聖書学院 教師・恵みキリストの教会 牧師 池田基宣

 

この度、『聖書難問注解 旧約篇』に続き『新約篇』がいのちのことば社から翻訳され出版されます。このような貴重な書物が日本語で読めるようになったことを、心から嬉しく思います。同時に懐かしさを覚えました。というのも、牧師として駆け出した三十年ほど前に、祈祷会でのみことばの分かち合いの教材としてその内容を紹介したことがあったからです。
『新約篇』に含まれる『The Hard Sayings of Jesus』(初版一九八三年)と『Hard Saying of Paul』(初版一九八九年)からアウトライン化したものを作り、集まった方々とその内容について語り合いました。今はもう新しい書物ではありませんが、こうして翻訳されて日本人にも紹介できるようになったということは、たいへん意味のあることです。聖書の読み方について、このような書物には一つのお手本があるからです。

キリスト教は「聖書の宗教」であると言われることがあります。それほどにクリスチャンは聖書に触れる機会を多く持ちます。一回読んだら終わりではありません。何度も読み、祈り、黙想する中で、みことばをかみ砕き、そこから生きる喜びや力、励ましを受けます。
礼拝説教や聖書研究会の中でみことばに触れます。個人的なディボーションの中で、日々みことばの恵みにあずかります。研究のため、教理的、神学的な学びのために聖書を用いる人々もいます。公的礼拝のように音読する時もあれば、一人で黙読することもあります。聖書は持っているけれども本棚にしまっているだけの場合は“積読”と言うそうです。いずれにしても、クリスチャンの毎日の生活に欠かせないもの、足のともしびであり、道の光(詩篇119・105)であるのが聖書です。

聖書そのものを読む
その聖書のみことばに触れる際、大切な心得がいくつかあると思います。その一つは、当たり前のことですが、「聖書のみことばそのものを読む」ということです。『聖書難問注解』のような書物は確かに聖書の理解を助けてくれる貴重な書物です。けれども、それだけで完結してはいません。喜びと力を得るような聖書の読み方は、参考書から与えられるのではありません。聖書のみことばそのものから来るのです。
ロシアの作家ドストエフスキーは、聖書の真理を深く知っていた文学者でしたが、彼が聖書を知ったのは、若い時、政治犯としてシベリア流刑の経験をする中で、手元にあった唯一の読み物が聖書であったからだと言われます。聖書よりも聖書に関する書物を読んで済ませてはなりません。自分ひとりで読んでみる。仲間と一緒に読んでみる。説教や聖書研究の話を聞くにしても、自分で聖書を読むことを知っているかいないかで、ずいぶんと聞き方が違ってくるものです。とにかく、聖書そのものを読むのです。

聖書そのものに語らせる
聖書を読む上で、もう一つ大切にしてほしいことがあります。それは聖書そのものに語らせる読み方をするということです。それは、聖書が語るメッセージや意図を細工しないで素直に読み取るということです。自分の価値観を聖書に押しつけないということです。私たちは自分でも気づかないうちに、そうした間違った聞き方、捉え方をしてしまうことがあります。一番の問題は、間違って聞いていながら、その間違いに気づいていない点です。むしろ、自分の読み方はいつも正しいと思っている。妙に自分の読み方に自信を持っている。しかし、それは聖書に語らせている姿勢ではありません。サウロと呼ばれていた頃の使徒パウロもそうでした。ダマスコ途上での経験を経て、目からうろこが取れて、パウロは色眼鏡なしで聖書を読み返し、大きく変えられました。思い込みで聖書を読むのではなく、白紙になって読むという習慣を身に着けることは、聖書の世界を広げる大きな鍵なのです。

そのパウロが書き残した書簡に、ピリピ人への手紙があります。第三章の中で、パウロは自分の信仰について語っています。ユダヤ人の中で最も模範的なユダヤ人であり、優れた知識人でもあったパウロが、どうして一転して苦労の多いクリスチャン生活に入ったのでしょうか。その問いに対して、パウロは八節と九節で次のように答えます。
「それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。」
ここには、信仰生活における三つの局面が描かれています。
一つ目の局面は、まず読者が聖書の中に自分を見出すということです。聖書に触れて、まず教えられること、それは私たちの罪深さです。聖書は容赦なく私たちの罪を暴き、指摘します。文豪・太宰治はよく聖書を読んでいた人です。三年かけてマタイの福音書を読んだそうです。私は自分が仕える教会で、丸四年かけてマタイの福音書から講解説教しましたが、太宰は説教することもないのに、マタイのみことばに没頭し、時間をかけて熟読したのです。そして、人間のどす黒い罪を見出しましたが、残念なことに、そこで立ち止まってしまい、大切な第二の局面に至ることがありませんでした。
それは、その罪を取り除く主イエス・キリストに出会うということです。聖書はどのページを開いても、キリストとの出会いがある書物です。それがなければ太宰のように自暴自棄になるか、他人事の書物で終わってしまいます。けれども、聖書は罪の現実とその解決を示す唯一の書物です。
さらに、三つ目の局面として、この私が「キリストにある者と認められる」のです。信仰の世界は、自己を神さまの恵みの中で正しく発見する世界です。自分を大切にし、自分を生かす心を持てるのは、聖書のみことばにそのことを見出すからです。
そのことを信じ、さらにみことばの恵み、キリストの恵みの内に生かされ続ける者として、日々豊かにみことばと共に歩んでほしいと願います。

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Emmanuel

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