ルカ15章には、同じような主旨の譬えが三つ出て来る。今日の所には、「見失った羊が見つかる」という話、8節以下には「無くなった銀貨が見つかる」という話、そして11節以下には広く知られた「放蕩息子」の譬え、つまり、疾うに失われたと諦めていた息子が悔い改めて再び父のもとに帰って来るという話である。
これらの譬話は、三つとも、ルカ 5,27以下 を基本的な枠組みとしている。つまり、イエスが「徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたり」しているのを、ファリサイ派の人々や律法学者が見咎めて非難する。それに対してイエスは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。…」(31節)という有名な言葉で答える。この基本的な構造が、今日の所にもにもほとんどそのまま出て来る(15,1-2)。
そして、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」という5章の結びの言葉は、15章では、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)という、より直接的な言葉で表現される。
さて、以上のことを踏まえた上で、少し掘り下げて考えよう。
イエスが「徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたり」しているのを、ファリサイ派の人々や律法学者が見咎めて非難したというが、これは何故だろうか?「徴税人や罪人」というのは、どういう人々なのだろうか?
「徴税人」とは、生活のためにやむなくローマの手先になり、ローマによる支配を支える間接税(通行税・市場税など)を徴収したユダヤ人の徴税請負人のことである。その際、「ピンはね」や「猫ばば」を働いて私腹を肥やし、民衆の恨みを買っていた。従って、律法学者たちの見方では明らかに「律法の違反者」である。
「罪人」も同じように「律法の違反者」である。しかしその中には、韓国で「民衆の神学」を唱え始めた新約聖書学者・安ビョンムが指摘したように、貧しさのために安息日にも働かざるを得ず、心ならずも律法の定める捧げ物を神殿に持っていくことも出来ず、また貧ゆえに背に腹は代えられず、律法の禁じる行為(例えば売春)を犯してしまった人々もいたであろう。そのために彼らには、ファリサイ派の人々や律法学者、またユダヤの一般社会によって「罪人」のレッテルを貼られた。
この人たちと一緒に食事をしたりすることは、ファリサイ派の人々や律法学者たちから見れば、わざわざ律法違反者の仲間だということを宣伝しているようなものだ。律法学者たちは、「神の国」に入ることを許されるのは(自分たちのように!)律法を正しく守る人に限る、と主張していたから、イエスが一方で「神の国」の到来を宣教しながら、同時に律法違反者の仲間として振る舞っているのは許し難い、と考えたのである。これが、彼らがイエスを非難した理由である。
ところがイエスは、「十把一からげ」にレッテルを貼りつけるような律法学者たちの見方とは違って、これらの人々に注意深い視線を注いでいた。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまでは捜し回らないだろうか」(4節)。
イエスはここで「見失った一匹」と言っているが、これは重要である。彼は、一人一人の人間を見る。「徴税人や罪人など」と大雑把にレッテルを貼って決め付けたりはしない。人はそれぞれ事情を抱えており、一人一人、みな違うのである。
「この徴税人」は、本当は、ローマの手先になって人の嫌がる税金を集めるなどという仕事はしたくなかったのではないか。生活のために、やむを得ずそうしている内に、いつの間にか「ピンはね」などの不正を働くようになり、人から疎んじられるようになってしまった。自棄も手伝って開き直っている。その悲しさ。
「あの罪人」も、本当はちゃんと律法に従って安息日も守り、規定の捧げ物も神殿に持って行きたかったのだろう。禁じられた職業に就くなどということも、したくなかったに違いない。――私はここで、ドストエーフスキーの『罪と罰』に出てくるソーニャのことを想起する。彼女は、呑んだくれの父親と、精神に異常を来した母親と、大勢の幼い弟妹を抱えて、他に方法が見つからぬままに娼婦になる。そして毎晩、辛い思いをしながら、貧しい家族を支えていたのだった。この悲しさ。
一人一人、どんなに辛い事情があることだろう。その一人一人の所へイエスは行く。この人たちと一緒に座り、一緒に飲み食いする。律法学者たちになんと非難されようと、その人たちの仲間になる。敢えて彼らの「罪を引き受ける」(ボンヘッファー)のだ。彼がゴルゴタで、二人の罪人と一緒に十字架につけられたのは、その象徴である。
もちろん、律法違反者として生きることが良いと言っているのではない。それは、神の道から逸れている。「見失われた」と言うのは、そういう意味だ。
だがイエスは、「見失われたものは捨ててしまえ」とは決して言わない。「見つけ出すまでは捜し回る」(4節)。「見つけたら、喜んでその羊を担いで」(5節)家に帰ってくる。そして、友達や近所の人々を呼び集めて、満面の笑みを湛えて、「一緒に喜んで下さい」(6節)と言う。今日は、古来「喜べ」という名で呼ばれる日曜日。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」ということが、その根拠なのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.