「自分の十字架を背負って」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
2000・3・26

「自分の十字架を背負って」

村上 伸
イザヤ書 53,1-12 ; ルカ福音書 14, 25-33

イエスに従って生きようと思うならば、自分の十字架を背負って行かなければならない。こういう意味の、我々が思わずたじろぐほど厳しい言葉である。これは、共観福音書のどれにも出てくる。その内、最も古いのはマルコ8,31以下だろうが、そこでは、イエスがご自身の十字架と復活を弟子たちに予告した直後に、この言葉が出てくる。ルカ9,21-27 でも同様である。

弟子たちに対して語られた言葉というなら、これはある程度理解できる。というのは、彼らはいわば選ばれた集団だから、一種の「エリート教育」の中でこういう厳しい生き方が要求されたと考えても、不思議はないからだ。私が陸軍の幼年学校の生徒であった時、事ある毎に「お前たちは将来の帝国陸軍を背負って立つ幹部になるのだ」と吹き込まれ、そのために「自分の命を捨てる」べき事を教えられた。

ところが、今日の個所では、一緒について来た大勢の群集に対してこの厳しい言葉が語られる。

 先ずこの点に抵抗を感じる人も多いのではないだろうか。

 何故イエスは、一般大衆に対してこんなに厳しい要求を持ち出したりするのか。大衆が求めているものは、大乗仏教が教えるような、もっと容易に手に入る「救い」であり、「癒し」なのだと、人は考える。大体、キリスト教は厳し過ぎるのではないか。

そこで、このように考える人もいるかもしれない。――大勢の群集がワイワイついて来るのは重大な仕事を抱えたイエスにとってはいささか「ありがた迷惑」だったので、彼はここで群集を篩(ふるい)にかけているのだ。わざと厳しいことを言って人々を震え上がらせ、ほとんどの人が立ち去った後、僅かに残った強い人々だけを弟子にする。これは、そのための「選抜試験」ではないか。

しかし、このような解釈は、イエスの生き方とは合致しない。少数のエリート集団や限られた数の側近だけに真理を伝え、一般大衆はまともに相手にせず、いい加減にあしらって帰すなどというやり方を、イエスはしなかった。中世の教会は、「山上の説教」に関して、恐らくその厳しさに辟易したのであろう、「これは修道士にだけ通用する倫理上の教えで、一般大衆のためのものではない」と解釈したことがある。このような「ダブル・スタンダード」(二重の基準)は、イエスは考えたこともない。

 彼は、その都度出会う人々に対してこの上なく真剣だった。時に応じて、また相手によって柔軟な対応をしたことは当然だが、誰に対しても真剣だったことに変わりはない。

 だから私は、ここで言われていることは、最近の言葉で言えば「マジ」であって、イエスは大真面目に、自分の十字架を負うように群衆に要求したと思う。

すると、どうなるのか?

イエスは、病気に苦しんでいる多くの人々を、そのしがらみから解放した。律法学者やファリサイ派によって「律法遵守義務」という重荷を背負わされて苦しんでいる人々を、精神的な重荷から解放した。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11,28)という、深い優しさに満ちた言葉も我々は聞いているではないか。

それなのに、彼はここで、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」(26節)と言って、解放された人々に又もや新たな重荷を負わせているように見える。この厳しい要求は、苦しむ者・重荷を負う者・いと小さき者に対する彼の優しさとどう調和するのだろうか。これが我々の根本的な疑問である。

さて、言うまでもないことだが、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」、つまり、自分たちの家族は普通、我々にとって極めて大切な価値である。イエスはそれに、「自分の命」を付け加える。そして、「これらの価値を捨てなさい」と言っているのである。「憎む」という表現も同じ意味だ。自分にとって最高・最大の価値であるようなもの。それを捨てなさい。「自分の十字架を背負う」とは、そういうことだ。

そんなことが出来るだろうか。

イエスは、人々の心に印象づけるために、わざと「白髪三千丈」式の誇張した言い方をしているのではないか。だから、余り本気に受け取らない方がいいのではないか、と言う人もいるかもしれない。だが、それは違う。

イエスがここで言っているのは、単なる命令ではない。我々にとって最上・最大の価値と思われているものでさえ捨てても悔いないような、もっと優れた価値が我々には既に与えられている、という福音のことである。

 それは、イエスがその全生涯を通して明らかにした真理である。どんな人でも、神に愛されている!あなたの神は、どんな時にも、あなたが「死の陰の谷」にいると感じるような時にも、あなたと共にいる。インマヌエル!神、われらと共にいます。この絆は、父・母・妻・子供・兄弟・姉妹といったこの世のあらゆる絆よりも強く、深い。このことを単純に、全面的に信じなさい。これは、「自分の十字架を背負って生きる」ことも可能にされているという福音なのである。

 28節以下に出てくる二つの譬えは、いささか唐突な感じがするが、33節の言葉が示しているように、以上に言われたことを補強する。つまり、何かをする時、我々は、それがもたらす結果を冷静に考慮し、肚(はら)を決めてかかる。人生についても同様。あの絆以外のものに執着するなら、イエスの弟子になることはできない。



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