今日のテキストは、マタイ4,12-17にほとんどそのまま引用されている。イエスが伝道を始めた頃、ガリラヤ湖と地中海に挟まれたゼブルン、ナフタリの地方に姿を現し、「湖畔の町カファルナウムに住まわれた」(13)ことに関連して、マタイが記したコメントである。
この地方は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているように、神殿があるエルサレム、つまりユダヤ教の中心であるエルサレムからは遠く離れた辺境の地であった。イエスは、この日の当たらないような場所であるガリラヤで先ず宣教活動を始めたのであり、貧しさや病気のために「暗黒の中に」いた人々に「神の国が近づいた」という福音を宣べ伝え、光をもたらした。そのことを言うために、マタイはイザヤ8,23a-9,1のこの言葉を引用したのである。
だが、このイザヤの言葉は、元々それとは大分違う意味で語られた。
イザヤ書の歴史的背景については何度か説明した。念の為にもう一度言えば、――紀元前8世紀の中頃、当時の超大国アッシリヤの脅威に直面した北王国イスラエルとシリヤは反アッシリヤ同盟を結んで対抗しようとし、この同盟に南王国ユダをも引き込もうとしてエルサレムを攻める。これが、紀元前738年の「シリヤ・エフライム戦争」である。だがユダはこの同盟には加わらずアッシリヤの援助に頼ったので、シリヤは滅ぼされ、イスラエル王国も、ガリラヤ以北、つまり、ガリラヤ湖と地中海に挟まれたゼブルン、ナフタリの地方、さらにヨルダン川東側の地域を、アッシリヤに奪われて結局、紀元前722年に滅亡する。
滅亡の6年ほど前に、アッシリヤとの連携という政策を選択して失敗した南王国のアハズ王が死に、まだ若かったヒゼキヤが王位に就くが、この時イザヤは、この若き王に期待を託して、失われたイスラエルの栄光は必ず回復されると預言した。それが今日の個所である。
3-4節は、地上のすべての王国が一つとして永遠に続きはしないように、結局はアッシリヤもまた主の裁きを受けて滅び、彼らによる抑圧と圧政は終わる、ということを預言している。「地を踏み鳴らした兵士の靴は焼き尽くされる」(4)。この言葉は、聖書の中ではただ一個所、ここにしか使われていない。多分アッシリヤ語から来た言葉といわれる。
5-6節は、ヘンデル『メサイヤ』の中で素晴らしい合唱で歌われているように、キリスト教会の中では救い主イエス・キリストの預言と理解されるのが普通だが、元々はヒゼキヤ王への期待を込めてその即位を祝った言葉だ。
さて、これまで述べて来たように、このイザヤの預言が元来紀元前8世紀の出来事と関連して、かなり限定された意味で語られたのだとすれば、マタイがこれをイエスの登場に適用したのは「恣意的な解釈」ということになりはしないか。
1,23もイザヤ書7,14の引用だが、これも元々の意味からは外れている。これも「牽強付会の解釈」だろうか。これだけではない。マタイ福音書は、至る所で旧約聖書の言葉を引用しているが、これらの多くは、やや強引な解釈という印象を与える。マタイには限らない。パウロが旧約を引用する時も、同じである。
だが、私はこういう読み方が間違っているとは思わない。
イザヤの頃と、イエスが歴史の舞台に登場した時との間には約700年の時の隔たりがあり、無論、両者の状況は違う。だが、根本においては共通するものがある。
例えば、人は思い上がり易く、傲慢になり易いということ。傲慢さは、政治的・経済的・軍事的・宗教的な権力を求めるということ。権力は支配する者と支配される者との差別の構造を生み出し、必ず弱い者が抑圧されるということ。
これは、アッシリヤやバビロン、ペルシャやエジプト、さらにギリシャやローマといった強大な勢力との間でユダヤ民族が繰り返し経験してきたことだ。いつの時代にもこの点は共通している。外国との関係でそうだというだけではない。同じ民族の中でも、このような差別の構造が生み出される。中心地エルサレムにいて抑圧する者たちと、ガリラヤの辺境にあって抑圧される者たち。
だがイザヤは、抑圧する側がいつまでも奢り高ぶっていられるものではないし、抑圧される側が永遠に「死の陰の中で」息を潜めて絶望しなければならないということもない、と言った。神がそんなことはお許しにならない!これが真理なのである。
そして、「暗闇に住む民は大きな光を見、…」(4,16)という言葉そのままに、イエスは辺境で生きる「いと小さき者たち」と共に住み、彼らの苦しみや悲しみを自からも担い、癒しや数々の奇跡を行った。イザヤが述べた真理を、イエスは自らの生涯を通して実証した、と言うべきであろう。その意味で、マタイの引用は正しいのである。
だから、我々も聖書の言葉をそのように解釈することは許される。無論、勝手気ままに解釈してはならない。だが、抑圧される者たちが解放される。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げられる」(6c)。これが聖書の基本的な方向なのであり、この方向で解釈がなされる場合は、多少強引な引用でも許されるであろう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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