「神のみを畏れよ」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・6・27

「神のみを畏れよ」

村上 伸
イザヤ書 8,9-15 ; マタイによる福音書 10,26-31

 

若い頃、恩師の鈴木正久牧師が、「神の他何者も畏れず、罪の他何ものも恥じず、イエス・キリストとその十字架の他何ものも誇らない人間が十人いたら、世界は動く」という言葉を教えてくれたことがあった。1739年にメソジスト教会を創始した英国の伝道者ジョン・ウエスレイの言葉だという。これは私の心に深く刻まれた。

ウエスレイが「恐れ」「恥」「誇り」の三つを挙げたのには深い意味があると思う。というのは、この三つはしばしば我々の行動を決定する要因となり、また、我々の人格を規定するからである。

親や教師への「恐れ」が人の行動パターンを決めるというのはよくあることだし、「恥意識」が過ぎるとその人を引込み思案にさせたり、他者との交わりを阻害することにもなり兼ねない。そして、「誇り」は時に自己顕示欲を助長させ、これまた人との交わりを破るであろう。何を恐れ、何を恥とし、何を誇るか。この三点において、我々の生き方は決定されると言っても過言ではない。

 

その中で、今日、私は特に「何を恐れるか」ということについて語りたい。

「牧師室から」にも書いたが、沖縄の金城重明牧師が16歳の時に体験した「集団自決」は、正に「恐れ」が生み出した悲惨な結果であったと言える。当時、沖縄上陸作戦を決行した米軍は、艦艇1400隻、上陸部隊18万、後方援護の人数を加えると50万の、しかも圧倒的な火力を備えた精鋭部隊であった。これに対して日本軍は約10万。

優劣は誰の目にも明らかであって、日本軍はこの強大な米軍に対する「恐れ」から、また降伏を許さない「戦陣訓」に金縛りになって、万に一つも勝利の望みのない状況の中で、島民を信頼することもできなっていた。軍隊は国民を守るためのものだといわれるが、沖縄ではその逆で、金城氏の本によると、島民が沖縄方言を使うこともスパイ行為に当たるという理由で禁じられ、そのために処刑された人は沖縄全島で数百名にも上ったという。日本軍はまた、非戦闘員にも捕虜になることを禁じた。だから、島民が最も恐れたのは、驚くべきことに、身近にいた「友軍」であったという。

この日本軍の米軍に対する「恐れ」と、日本軍に対する島民の「恐れ」とが、「集団自決」という悲劇を招いたのだ。その証拠に、それが起こったのは日本軍がいた島に限られた、と金城氏は言う。

そもそも、軍備も戦争も、「恐れ」が誘発するものだ。敵に対する「恐れ」が軍備を増強させ、それは相手方にも同じ「恐れ」を生じさせるから軍拡競争が始まり、そしてある日、極度の緊張に耐え切れなくなった最前線部隊が発砲する。軍隊の論理では、「攻撃こそ最善の防御」だから、いつか必ずそうなる。イザヤの「武装せよ、だが、おののけ」(9)という言葉は、正にその点をついているのではないだろうか。

「おののけ」という言葉を、マルチン・ブーバーは「倒れよ」と訳している。「武装せよ、だが、倒れよ。武装せよ、だが、倒れよ。結論を出せ、だが、粉々に砕けよ。相談せよ、だが、それは実現しない」。イザヤは、武装や軍事同盟が常に悪いと言ったのではない。それが「恐れ」や疑心暗鬼と結びつくと決して良い結果を生まない、と言っているのである。

南王国ユダは当面の敵に対する不安と恐怖から、うろたえて度を失い、もっと恐ろしいアッシリヤの軍事力に頼るという愚かな選択をした。このことをイザヤは批判したのだ。「恐れ」は落ち着きと冷静な判断力を失わせ、忍耐して待つ力を奪い、他の可能性を探る知恵を曇らせる。

イザヤは、こうも言う。「彼らが恐れるものを、恐れてはならない」(12)。

恐れる必要のないものを恐れてはならない。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」(13)! その他に恐れるべき方はいない。

イエスは「人々を恐れてはならない」(マタイ10,26)と言われた。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28)!これも同じ意味であろう。

それでは、「神のみを畏れよ」というのはどういうことか?

ここで「ゆるやかに流れるシロアの水を拒み」(6)という言葉に注目したい。古来、エルサレムではギホンの泉から湧き出る水をエルサレムの南に導いて貯水し、この水が篭城の際の生命線とされていた。そこから、この都には神のみ座があり、その下から命の水が流れ出ているのだという信仰が生まれたのである。「神が共に在す」(インマヌエル)!

 多くの場合、我々は気づいてもいないが、我々の存在の最も深い根拠に神が在し、支え給う。存在するあらゆるものの根拠は、「インマヌエルの原事実」(滝沢克巳)、つまり神の愛である。その方に対する畏れの心、深い畏敬の念。これによって初めて、我々は恐れから解放される。第一ヨハネ4,18は「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と言い、さらに続けて「わたしたちが愛するのは、神が先ずわたしたちを愛してくださったからです」(19)と言っているが、これは本当だ。

「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが恐るべき方は主。御前におののくべき方は主」(13)。これは実は解放の福音なのである。これによって生きる時、人は落ち着いて冷静な判断力を働かせることができ、忍耐して神の示し給う時を待つことができ、視野を広く持って他の可能性を探る知恵が与えられる。「神のみを畏れる」というのは、このことである。



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