日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第21回 高齢者と信仰

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

「高齢者」になるということは、神様が人間に与えてくださる祝福のひとつの形です。教会の中には、幼児祝福礼拝や成人祝福礼拝と同じように、「高齢者」を祝福する礼拝を実施しているところがあります。もちろん、何歳から「高齢者」なのかについて明らかな基準があるわけではありませんが、たとえば「後期高齢者」と呼ばれる七十五歳以上をひとつの目安にして、教会全体で共に喜び、神様に感謝する時を持つことはすばらしいと思います。

もちろん高齢になることには、困難さが伴います。基本的な身体能力や認知機能などの低下に加え、つらい持病を患ってしまう人も多くいます。また高齢になると、配偶者や友人の死という悲しい体験も多くなります。もし高齢になるにしたがって多くの能力や機能、また人を失っていくのであれば、それのいったいどこが祝福なのでしょうか。

イスラエルの出エジプトを導いたモーセという偉大なリーダーの後継者となったヨシュアは、約束の地で大活躍をします。しかし、彼もモーセと同様、高齢者になりました。ヨシュア記13章1節の前半には、以下のような記述があります。「ヨシュアは年を重ねて老人になった。」ヨシュアは自他共に認める高齢者であったことがわかります。

しかし同じ1節の後半で、神様はヨシュアにこう言われました。「あなたは年を重ね老人となったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」そしてその言葉の後には、占領すべき土地の名前が延々と記されています。ヨシュア記は24章まで続きますので、実はまだこの時点は、ヨシュアの人生の折り返し地点にしか過ぎなかったのです。

たしかにヨシュアは高齢者となり、身体的には若かったころのような活躍をすることはできなくなってしまったかもしれません。またきっと、気心の知れた友人や有能な部下も失っていたでしょう。しかし、そんなヨシュアに対して神様は、特別な使命を持っておられました。高齢者であるヨシュアに与えられた祝福はそこにあったのです。それは神様が使命を与えてくださることと、その使命のために生きることができるという祝福です。たとえ高齢者になっても、神様は信仰者に対して使命を与えてくださいます。神様に必要とされているのです。神様のお手伝いをすることができるのです。なんと素晴らしい祝福でしょうか。

もちろん、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11章30節)とキリストが言われたように、神様は私たちのことをよくご存じなので、必ず私たちにできる範囲での使命を与えてくださいます。それは毎日、教会の人たちのために祈ることかもしれません。教会に初めて来られた人を、心からの大きな笑顔でお迎えすることかもしれません。また、教会の子どもたちにわかりやすく聖書のお話をすることかもしれません。高齢期になってなお、神様から与えたれた自分の使命に確信をもっておられる方は、実に生き生きとされています。そしてそこにこそ、神様の祝福があります。

また信仰者が高齢になるとは、老いてなお成長し続けるということでもあります。ペテロの手紙第二には、信仰者に宛てた言葉が以下のように書かれています。「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(Ⅱペテロ3章18節)。

「恵みにおいて」とは、魂の救いが一方的な神様の恵みであることを自覚しつつ、神と人の前に謙遜な心を養うということです。「知識において」とは、神様の下さった聖書のみことばを慕い求め、より深く神様を知るということです。最後に「成長しなさい」とありますが、ギリシア語では「成長し続けなさい」という意味を持っています。信仰者は、たとえば七十歳になったら、また八十歳になったから、もう成長しなくてよいという存在では決してありません。天国に行く日の前の晩まで、神様は私たちが「あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」(エペソ4章15節)ことを求めておられるのです。「成長し続ける」存在であるということは、常に「まだまだこれから」「もっともっと」という思いを持ち続けることでもあります。このように信仰者としての自分の成長を願い続ける人は、やはり生き生きとした、祝福された人生を送っている方です。

「老害」「ボケ老人」そんな醜い言葉が、私たちの住む社会には溢れています。もしご自分を「教会のお荷物」「役立たず」などと思っておられる方が教会にいるとしたら、それは何と寂しいことでしょうか。何よりもまず神様が悲しまれます。たとえ失うものが多くあっても、たとえ大きな不自由さを抱えていても、高齢者として輝くことができるのは、信仰者の特権であり祝福なのです!

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