詩編103編・神はわたしたちの罪に応じてわたしたちを扱うことをされない
正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。
エホバ神は、私たち個人や国家が、エホバ神に対して恐れを示す時、憐みを示してくださり、裁きを撤回したり、裁きの執行の時期を延ばされたりすることがあります。 詩編 103編には、エホバ神が、「わたしたちの罪に応じてわたしたちを扱うことをされなかった。わたしたちのとがに応じて当然もたらすべきものをわたしたちにもたらすことをされなかった。・・・父が自分の子らを憐れむように、エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。」とあります。(詩編103:10,13) エホバ神がそのように罪人に寛大に接せられた例があるでしょうか。あります。例えば、マナセ王、ニネベの人々、アハブなどです。それらの人々は、当然の罰を差し控えられました。それらの人々がエホバを恐れたからです。 マナセ王は、神を恐れる良い王ヒゼキヤの息子でした。それで、彼は、父ヒゼキヤが神に対する恐れを示し、神に報いられるのを見ていたはずです。しかし、マナセ王は、神の律法に反するありとあらゆる悪行をしました。偶像崇拝、子供を偶像に犠牲としてささげること、流血、心霊術をしました。(歴代第二33:2,6) とりわけ、マナセ王は、エルサレムを罪のない者たちの血で満たしたと聖書は記録しています。(列王第二21:16)マナセ王は、エホバの崇拝者を大々的に、迫害したと考えられます。伝承では、預言者イザヤは、マナセ王によってのこぎりで切り裂かれました。 しかし、マナセ王は、神からの罰を受けて、アッシリアに捕らわれていった時、へりくだり、エホバに憐みを祈り続けました。エホバは彼の祈りを聞き届けて、マナセ王は、王位に復せられました。(歴代第二33:11-13,19)マナセ王が行なった、数々の悪行を考えると、エホバ神が、マナセ王を寛大に扱われたのは、驚くべきことです。 それで、マナセ王は、エホバがまことの神であることを知るようになったと聖書に記録されています。しかし、エホバはマナセの悪行のために、エホバはご自分が選ばれた都市エルサレムを捨てて、バビロンによって滅ぼすことを決定されました。そのエホバの決定はゆらぐことはありませんでした。(列王第二23:26,27) それで、エホバはご自分の流血や偶像崇拝を禁じるご自分の律法に断固として付き従われて、同時にご自分に恐れる者に対して、個人的には、憐みを示されることがあります。マナセに対する神の扱いは、確かに、神がご自分を恐れる者たちに対して、当然の罰を差し控えられて、寛大に扱われる例の一つです。 ニネベの王を筆頭にニネベの人々も、流血に携わりました。それで、エホバは預言者ヨナを用いて、ニネベが後四十日で、滅ぼされると言う差し迫った音信を伝えさせました。(ヨナ3:4)ところが、ニネベの人々は、ヨナが伝えた音信を聞いて、ニネベの王を初めとして大きな者から小さな者まで、神を恐れ、悪から立ち返り、粗布をかぶって神に呼び求めました。ニネベの王もそうするように、ニネベの人々に勧めました。(ヨナ3:5-9)
James Padgett (jonah3)ヨナが宣べ伝えた結果ニネベの人々は悔い改めニネベの裁きは後に執行されることになりました神はご自分に対する人の恐れに憐みを示されます その結果、エホバ神は、四十日の内にニネベを滅ぼすという宣言を撤回されました。ニネベの人々の当然受けるべき罰をエホバは差し控えられました。(ヨナ3:10)後になってニネベはやはり、その流血の罪に携わりました。それで、ニネベは、やはり覆される結果になりました。 それでも、ニネベは、約200年程その寿命を長くしたと考えられます。それで、ニネベの人々の神への恐れのために、ニネベに対する罰の執行の時が遅くなりました。 このように、エホバ神は人々のご自分に対する恐れに対して反応されます。ご自分に対する恐れのゆえに、その裁きの執行を撤回されたり、裁きが執行される時が遅くなることがあります。それは、エホバ神が、人間が塵であることを覚えておられるからであり、ご自分に対する恐れを人間が示す時、憐みを示されるからです。私たちは、生ける神、エホバに対して恐れの気持ちを培いましょう。 私たちは完全ではありません。罪を犯すことがあります。しかし、私たち個人や、政治指導者がエホバ神に対する恐れを示す時、また、もし、大いなるバビロンや他の国家に住む人々の多くが、ニネベの人々のようにエホバに恐れをしめす時、エホバの私たちに対する扱いは異なってくるでしょう。