N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版⑥

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

過去記事 ① ② ③ ④ ⑤

前回まで、旧新約聖書のすべては文化的に順応して書かれているため、表面上の文言をそのまま現代に適用することはできない、と書いてきました。それにもかかわらず、聖書を現代の教会にも語りかける神の言葉であると考えるなら、テクストの表面下にある、より普遍的なメッセージを抽出していかなければなりません。

ここにおいて、これまで比較してきた、「聖書のデフォルトは普遍的メッセージである」という考えと「聖書のデフォルトは順応されたメッセージである」という聖書観の違いが明らかになります。前者では聖書テクストの大部分は普遍的な真理としてそのまま現代に適用できるとされます。そうすると、聖書を真理の情報のデータベース、あるいは道徳のルールブックのように読むことも(それが正しいかどうかは別として)比較的簡単にできます。実際、多くのキリスト者は日常的に聖書をそのように読んでいると思います。

ところが、聖書のすべてが書かれた当時の文化に順応されているとすると、そこからどの文化にも普遍的に当てはまる核の部分を取り出すことは容易ではありません。その抽出方法も人によって異なりますので、幅のある結果が得られると思いますが、この記事では現時点での私の考えをお分かちしたいと思います。

私は聖書の普遍的メッセージは、神のご性質と目的と計画に関する啓示である、と考えます。神がどのような存在なのか、神はこの宇宙に対してどのような目的を持っておられるのか、そしてその目的を実現するためにどのような計画を持っておられるのか、ということです。神はその計画を実現するためのパートナーとして人類(特に神の民)を選ばれました。私たち人間が神のご計画を知ってそれに参加することができるためには、神ご自身とその目的および計画について最低限のことを知る必要があります。そのために与えられたのが聖書です。

この啓示の具体的内容は、人によって捉え方が異なります。たとえばウォルトンの場合、それは地上における神の臨在の回復という視点から語られます。これを神の国(支配)という視点から考える人もいるでしょうし、他の見方もできるかもしれません。これは別の言い方をすれば、聖書神学(聖書が全体として伝えようとしているメッセージ)の中心主題は何かということになります。

私自身は、ウォルトンの影響も大きく受けていますが、「創造」という主題を軸にグランドナラティヴを考えています。神は愛に満ちた創造主であり、いのちを生み出すお方です。(ここで「創造」とは無から物質を生み出すということではなく、混沌から秩序や目的や機能を生み出す働きと理解されています)。被造物の反逆によって混乱に陥った世界を回復することが神の目的ですが、そのプロジェクトのパートナーとして人間は招かれているのです。したがって、どの時代においても、神の民の目的はこの神の目標を見据えつつ、それぞれ与えられた歴史的・文化的コンテクストにおいて許された限界内で、神の世界(自然界だけでなく人間社会も含まれます)においていのちを育み、調和と秩序を保つことです。そしてその最終的な目標は、神を中心として世界のすべてが調和と愛によって一つとなり、ダイナミックないのちに満ちあふれる、宇宙的な平和(シャローム)の状態に至ることです。繰り返しますが、これが唯一の正解とは思っていません。

いずれにせよ、このような聖書の普遍的メッセージは、多くの人が拍子抜けするほどシンプルなものです。けれども、あらゆる時代、あらゆる文化に生きる人々に適用される普遍的なメッセージがもしあるとすれば、それは結局そのようなシンプルなもの以外ではありえないと思います。もちろん、他のことについて書いてあるテクストが無意味だというわけではありません。けれどもそれらのテクストはすべて当時の文化に順応して書かれていることを考慮しつつ、この中心的な啓示との関係に照らして、その普遍的妥当性と現代における意義を考えていかなければならないのです。

そして、私はこの普遍的なメッセージは、無時間的な命題の集合ではなく、時間の流れに沿ってダイナミックに展開するナラティヴであると考えます。その意味で私はライトの5幕劇のモデルには同意します。また、以前このブログでも取り上げたことのあるスコット・マクナイトは、その著書『福音の再発見』において、聖書が語る「福音」の内容をナラティヴの形で要約していました(同書220-226を参照)。私はそれは「福音」の要約であるだけでなく、聖書全体の要約でもあると考えます。福音のメッセージと聖書のメッセージは別のものではないのです。

このことについて違和感や不満を覚えるとしたら、それは私たちが聖書について誤った期待(世界のあらゆる真理を含んだ百科事典、あらゆる人間行動を網羅した規則集、等々)を持っているからかもしれません。

聖書は「人生を導く書」のように言われることがあります。私もそのことに異論はありません(より正確に言えば、それは神の民としての教会共同体を導く書であると思います)が、それは「人生のマニュアル」という意味ではないと思います。私たちが抱くあらゆる疑問(「地球の年齢はどのくらいか?」「どのような法律を作るべきか?」等々)についての「正解」が聖書のどこかに直接書かれているわけではないのです。現代の教会が直面している課題のほとんどは、私たちが聖書の普遍的なメッセージを参考にしつつ、試行錯誤しながら自分たちで解決法を考えていかなければならないのです。

当然そこには複数の選択肢が生まれてきます。「〇〇書の◯章◯節にこう書いてあるから」というやり方で唯一の「正解」が決まるわけではありません。個人の人生にしても、集団としての教会にしても、神の民の歩みは神が敷いたレールの上を1ミリもずれずに歩んでいかなければならないようなものとは違うと思います。聖書はそのようなレールというよりは、大体の方向を示すコンパスのようなものと言えるでしょう。目的地の方角は分かっていても、実際にそこにたどり着くまでにどのルートを取るのかはいろいろな方法があるということです。

では、どのようにして今日私たちが生きている文化の中で、文化的に順応された聖書を読み、それに従っていけば良いのでしょうか? 議論はここで一巡して、第①回で紹介した、ライトの5幕劇のアナロジーに戻ってきます。それは、神の目的を計画を啓示しているグランドナラティヴに従って、現代社会という私たちのコンテクストにふさわしいパフォーマンスを、アドリブで演じていくということです。そのためには、グランドナラティヴのこれまでの展開と、最終的に目指されている結末と、その中で役者である神の民に与えられている役割を熟知している必要があります。この点で私はライトに完全に同意します。

くどいようですが、そこには唯一の「正解」はありません。現代の教会が直面する様々な課題に対して、キリスト教会として取りうるアプローチは複数あります。しかし、「アドリブ」だから何をやっても許されるわけではありません。また、どの演技も同じではありません。そこには相対的に「良い」演技と「悪い」演技がありえます。ここで「良い/悪い」というのは、グランドナラティヴ全体の意図にかなっているかどうか、という基準に照らして良い/悪いということです。そしてすでに述べたように、私はライト本人による、一夫一婦制しか認めない結婚制度の解釈は「悪い」演技であると考えています。

なぜそう考えるのか、ライトの解釈のどこに問題があるのかを次に述べたいと思います。

(続く)

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Emmanuel

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