サタンの誘惑
みなさんは「みのるほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という言葉を聞かれたことがあると思います。これは上に立つようになるほど謙虚であるべきだと昔から述べられている事です。
なぜなら上に立つほど謙虚になるのが難しいからです。
「権力」とはサタンが神よりも自分を偉いと考えそして最初の人間を誘惑した事から人間に入りました。それは今でも続いています。国家元首だろうと、小さなグループであろうと面白いように同じです。
姦淫を犯していた女を捕まえた群衆がその女をイエスの前に引き出し「先生、この女は罪を犯しました、石打にすべきです」と言うとイエスは地面に何かを書きながら罪を犯さなかったものだけが石を投げるように言われました。
そして「年老いた者から石を捨て」最後には誰もいなくなりました。これは聖書を読まれた方はよくご存知の場面です。
この時群衆の心に何が起こったでしょう。「自分は礼拝を守り祈り神に従っている、でも昨日そういえば、あ、今日もそういえば誰かに怒ったかも知れない、呟いたかも知れない、あれは神には喜ばれていない」と自分を振り返ると恥を見て自分は「罪人」だと気がつくのです。
そんな事は知っている、と思われるでしょう。でも実際の生活で人は心の中で、また声を出して誰かを裁く心の呟きがありませんか。
ここで群衆は自分も罪人でありながら他の罪人を裁く権利があると勘違いした結果イエスに申し出ていかにも自分は正しい事をしていると豪語しました。
この大きな間違いの最大級が人が十字軍となり神に反する人間を「罪人である自分」が裁くという過ちが起こりました。どんな時代にも人間は権力を持つと必ず「自分」が偉いかのように勘違いします。しかしその人が偉いのではなくその「肩書きの力」に人は従っているだけです。
イエスは権力を持つ人ほど上に立つほど自分を低くしなさい、謙虚になりなさいと何度も言われています。なぜなら権力はサタンによって人に「あなたは偉いのだから神のように人を裁いていい」と囁くからです。
彼らほど柔和でへりくだらなければならないとイエスは言っています。
なぜなら完璧で裁ける権威があるのは神のみでありその神が「あなたの罪は赦された」と直接言われたら他の人間はその罪をあげつらいその人に向かって「あなたのしている事は罪です」という権利は無いのです。
イエスは女に「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。それは彼女が彼女の信仰で神の赦しを受けとめたからです。
人間は誰も他人を裁く権利はないのです。なぜならその人の罪を取り去り、人を美しく変えることができるのは神です。本人が神に示されれば必ず癒されその罪から解放されます。
今問題になっている同性愛や堕胎の問題は神がその人に示されたらその罪から離れることができます。本人も罪だとは分かっていて傷ついているのですから、私達にできるのは相手の傷を理解して、その罪から解放されるよう神の赦しを共に祈ってあげる事です。
その罪を示し、裁く、権威があるのは「神」だけでありながらそれをイエスはしなかった、イエスはその時その女が既に悔い、罪を自覚しているのをご存知だったからです。それを思うと神の愛の大きさを感じます。
マザーテレサやパウロが「私は罪人の頭です」と言ったのは自分は100%完全にはイエスのようにはなれていない、その事を知っていたからです。
肉体は弱く疲れます。「こんなに命を注いでいるのに人は何で聞かないんだろう」「今日は疲れたから人の世話をしたくない」そんな事を少しでも思った瞬間光に近い人ほど「自分は何と罪深いのだろう」と気がつくのです。イエスを知れば知るほど光にさらされ自分の罪がよく見えるからです。
しかし、神が光にさらされるその時は赦された時です。なので日々の罪の悔い改めが重要になります。
神に「盗むな、殺すな、姦淫するな」と言われているのはあなたであってそれを基準に人を裁くようにとは言われていないのです。それが「あなたの目に梁(はり)がある」とイエスは指摘されています。「裁かれないようにあなたも裁いてはならない」のです。そしてどんなに正しい事であっても裁いた瞬間それは「律法」となってしまいます。人を裁く権利は人間には誰一人ありません。
そして神がその人にその罪を示された時、その瞬間その人は赦されかわります。それは「神」だけが介入する場所で有り、他人が介する領域ではありません。
自分の罪の深さに気がつき神に赦しを祈り、赦されたと受け取った人間にそれ以上その罪を指摘する事は人間にはしてはならない事です。その事を何度も持ち出して、既に充分傷ついている人に何度も言う事はしてはならないのです。
あなたの罪を裁く権利があるのは神だけです。そして神に罪を申し出ると赦され取り去られ癒されます。唯一最高の権威者である神が赦されたものを他人が裁く事はできません。
イエスは弟子達の足を洗いました。
権威のある立場の者でしもべの脚を洗う人間はこの世に一人もいません。
イエスは「私がこれを行うのだからあなた方も互いにそうしあいなさい」と言われました。
あなたは隣の方の脚を洗うことができますか。
自分に親切だからではなく自分の一番苦手な人に笑顔で挨拶をして愛していますと言ってみてください、そこには感動があります。
イエスのようになる、とは「全てにおいて」という意味です。
きょう隣人、それはあなたの親兄弟だったり、配偶者だったり、子供だったり会社の人だったりします、その方が神に癒されるように祈りましょう。
祈りは必ずきかれます。そして祈るとあなたの内面が美しく変わっていきます。
「多くを赦されたものは多くを愛する」
罪の深さを知ったものはその変化も格段に目を見張るほど顕著なものがあります。自分の罪を日々神に返し、神の赦しを祈りましょう。明日からのあなたが美しく変わりますよ。
“悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。”
エペソ人への手紙 4:29
“互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
"エペソ人への手紙 4:32
「神の恵と導きがあなたにあります様に」
(LL)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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