心の中で

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「心の中で」

廣石 望
申命記4,32-40 ;

I

 8月は15日が敗戦記念日であり、「祈り」の季節です。かつての戦争が日本人と近隣のアジア諸国の人々にもたらした大きな被害を思い起こします。さらにこの時期は、日本の習慣でお盆に当たり、死者への追悼と想起なしには過ごせない季節です。

 それと同時に、8月は「正しさ」とは何かを考えさせられる季節でもあります。隣国のいわゆる反日教育に対する反発もあってか、あの戦争が「間違っていた」と考えない人々も日本にはかなりいます。広島と長崎への原爆投下が「正しい」行為であったかどうかについても、意見は多様です。先日6日の記念式典で広島市の松井一実市長は、原爆が「絶対悪」であると言いましたが、米国ではおそらく今でも「正しかった」という見方が強いのではないかと思います。さらに軍隊や核兵器使用の是非に関連しては、平和が抑止力によって保証されるのか、あるいは非暴力によってこそ促進されるのかをめぐって意見の対立があります。

 本日のテキストは「ファリサイ派の人と徴税人」の譬えです。イエスがエルサレムに向かう途上で、自分が〈正しい〉ので自分について確信があり、そのために他の人々をノーカウントと見なす人々に向けて話したとされています。

 物語には「ファリサイ派の人」と「徴税人」が登場します。イエスは譬えを語っているのですが、ファリサイ派も徴税人も当時の世界に実在したグループです。ファリサイ派は一般民衆が担った一種の宗教的な改革運動です。「律法」すなわちモーセ五書を解釈することで、祭司が神殿奉仕をするさいに求められた清浄さを日常生活の中でも達成しようとしました。解釈の伝承は「父祖たちの言い伝え」と呼ばれ、後にミシュナーその他のユダヤ教文献に収録されました。他方で徴税人は、ローマ帝国に収める税金を集める請負業者のもとで働く人たちです。民族主義の立場から見れば敵性協力者として民族の裏切り者であり、決してファリサイ派に受け入れられることはありませんでした。つまり当時の社会で両極端の立場にあった二人の人物が、譬えの主人公です。

 興味深いことに、この物語でも「正しさ」と「祈り」が結びあわされています。ファリサイ派も徴税人も、神域で「神さま」と祈っています。しかもそのさいファリサイ派の人が、自分が「不正な者」でないことを神に感謝する一方で、徴税人は自らを「罪人」と形容します。語り手であるイエスは徴税人を指して、この者が「義とされた」と言い、ファリサイ派の人についてはそうでないとコメントします。その場合の「義」とは、おそらく罪の赦しを意味するでしょう。また登場人物であるファリサイ派の人がイエスのコメントを聞けたとしたら、さぞかし不満に思ったことでしょう。

 祈りとは何でしょうか? また正しさとは何でしょう? そして両者の関係とは何なのでしょうか?

 

II

 祈りも正しさも、他者との関係に結びついています。

 先に述べたように、〈祈り〉は神に向けられています。そのさいファリサイ派の人については、「立って、心の中でこのように祈った」とあります(11節)。ギリシア語原文は「ファリサイ派の人は立ち、自分に向かって、こう祈った」です。新共同訳は「自分に向かって」を「祈る」にかけて「心の中で祈った」と意訳しますが、以前の口語訳は「立つ」にかけているのか「立って、ひとりでこう祈った」とあります。どちらがよいのかよく分かりません。ちなみに「心の中で」と訳すと黙祷であったような印象がありますが、当時の人々は、基本的には声に出して祈ったように思います。すると、このファリサイ派の人は「自分に向かって祈った」と言いたいのかもしれません。神への祈りがじつは自分に対するモノローグであるとしたら、恐ろしいことだと思います。

 他方で徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」(13節)と描かれています。「遠くに立つ」とは、ファリサイ派の人と対比してより背後に、という意味でしょう。社会の表舞台に出る立場にない身分であることの示唆であるように感じます。「目を上げず、胸を打つ」とは悔い改める者の所作です。

 さらに〈正しさ〉は神・他者・自分自身との関係のあり方として現れます。ファリサイ人は神への感謝を述べるさいに自分が他人とは違うこと、また自分が行っている宗教的な善業について言及しています。他方で徴税人は、感謝の祈りではなく、神の憐れみを乞う祈りをしています。「罪人の私を憐れんで下さい」とは、自分は罪人つまり正しくない者であるけれども私に恵み深くあって下さい、私を贖って下さい、私と和解して下さいという願いの表明です。

 ユダヤ教のラビの言葉に、以下のようなものが伝えられています。

神に対して、また被造物に対して正しい義人がいる一方で、そうでない者がいる。後者は神に対しては正しいが、あらゆる被造物に対して正しいわけではない。(バビロニア・タルムード『キドゥシーン』40a)

 ファリサイ派の人は自分と神の関係が正しいことに執着して、他の被造物への配慮が欠けているように感じられます。

 

III

 さらにこの譬えでは、祈りと正しさの関係をめぐって〈他人との比較〉という要素が現れます。

 もっとも徴税人の祈りに、この要素は明示的には現れません。彼は自分以外の人については沈黙しています。これは世間でまともな人間と認めてもらえないという、差別状況の反映であるかもしれません。そうだとしたらこの沈黙の中に、差別という意味での〈他者から与えられた比較〉が含まれると見てよいかもしれません。

 他方でファリサイ派の人は、自分が他の人々のようでないことを、神に向かってあからさまに感謝しています。こっそり盗むにせよ暴力で奪い取るにせよ、自分がそのような盗人でないこと、詐欺をするにせよ法律を破るにせよ、自分がそのような不法者でないこと、そして他人の妻を寝取ることで婚姻関係を破る者でもないことを。さらに「この徴税人のような者でもないことを」と彼は、つけ加えます。まったくあらずもがなの余計な発言で、これを聞いた聴衆はみな失笑したのではないでしょうか。しかし私たちの誰しも、何らかの意味では、〈あの人といっしょにされたくない〉という気持ちをもって暮らしていることも事実です。それぞれに大切なプライドがありますから。その意味では、ファリサイ人の祈りは、私たちの痛いところをついてくるものでもあります。

 さらにファリサイ派の人は自分が週に二度――具体的には月曜日と木曜日であると思われます(『12使徒の教訓』8,1参照)――断食していると付け加えます。普段ですと、イスラエル人の全員が断食するよう定められていたのは年に一回、すなわち大贖罪日だけでした(レビ記16章参照)。それをファリサイ派は一週間に二度も行うわけです。さらに十分の一税とは本来、農業生産者が自ら育てた農産物について支払うものでしたが(申命記14,22以下参照)、ファリサイ派は市場から購入してきた物品の中に、もしかしたら十分の一税が未納のままであるものが含まれている可能性を恐れて、自分が購入するものすべてにいわば安全策として十分の一税を支払いました。

 紀元1世紀のラビであったネフンヤ・ベン・ハカナーという人の発言として、以下のような言葉が伝えられています。

わが神、わが父たちの神であるヤハウェよ、あなたに感謝します。あなたは私に、教えの家と会堂に座る者たちに間に、わたしの取り分を与えて下さいました、そして劇場やサーカスを観に行く者たちの間にではなく。私は努力し、彼らも努力します。私は熱心であり、彼らも熱心です。ただ私はエデンの園を手に入れるために努力し、彼らは穴の泉〔=冥府の泉〕を手に入れるためにそうしているのです。(エルサレム・タルムード『ベレーシート』4,7d)

 私は天国に行き、彼らは地獄に落ちるだろう――これが、祈りと正しさが他者との比較に基づく優劣の判断に巻き込まれてしまったときの究極の姿なのかもしれません。

 

IV

 祈りや正しさに、いろいろな危うさがつきまとっていることは分かりました。同じ危うさは、この物語そのものがファリサイ派の人と徴税人の祈りを比較している点にも潜んでいます。下手をすると私たちは、「私がこのファリサイ派のような者でないことを、神に感謝します」と祈りかねないではありませんか!

 そうした危うさに直面して、私たちにとって神への信頼とは何でしょうか? そのことを考えるための手がかりとして、以下の文章をご覧ください。

神を愛し、神に愛されるにはどうしたらいいのか?――甘えなさい。幼児が母に甘えるように甘えなさい。…
甘える。――これこそ神をまったく愛し、まったく信じ、まったく頼っておらねばできぬ態度ではなかろうか。…
しゃちほこばって、難しい祈り文なんかを形式的にとなえ上げ、いかにも儀式を厳かに取り行う一方で、儀式がすんで、一歩世間の実業に身を移すと、神のことなんか頭の先から掃き出してしまい、信仰は信仰、商売は商売、公私の別をあきらかにしておかんと…などとうそぶいている信者に向かっては、神は果たしてどんなお気持ちを抱きなさるであろうか?
私たちの父なる神は…一定の神殿の奥なんかに引きこもってはいない。どこにもあまねく存す。ここにもいなさる。いつでもいなさる。今ここにいなさる。私が亡くなって後もカヤノのすぐそばにいなさる。誠一は神に抱かれている。いつも抱かれている。二人がおばあさんになり、おじいさんになっても抱かれているのである。
神は別に威張ってはいない。競争者がいないから威張る必要はないし、本来威張るお方ではない。
(永井隆『この子を残して』サンパウロ、88-89頁)

 この文章を書いたのは、長崎の原子爆弾投下後に医師として働いた永井隆さんのものです。彼はカトリック教徒でした。放射線の影響で余命幾ばくもないことを知っていた彼が、やがて孤児になるに違いない二人の子どもさんを思いながら書き残した文章の一部です。

 いったい祈りとは何でしょうか? 正しさとは何でしょうか?――正しさとは社会契約の忠実な履行であるとか、私が所属するコミュニティの全体的な利益に叶うことであるとか、いろいろな意見があるでしょう。しかしキリスト教信仰から見るとき、それは永井博士があえて「甘え」という言葉で表現した、神との信頼関係のことであると言ってよいのではないでしょうか。

 神の愛に信頼する者は恐れがありません。だから他者との関係においても、勝手な比較に基づく差別を生みだすことも、知らない人を軽蔑することもしないと思います。その必要がないからです。「神は別に威張ってはいない。競争者がいないから威張る必要はないし、本来威張るお方ではない」。――この神に信頼するとき私たちは、武力で威嚇することで相手を圧倒したいという誘惑から自由になって、他者との新しい関係に入ってゆくことができるだろうと思います。

 

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