柔和な人は幸いである”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
”柔和な人は幸いである”ということを考えてみました。 山上の説教にある
”八福の教え”の第三番目は、
「柔和な人たちは幸いである、彼らは地を受けつぐであろう」という教えです。ここでイエス様は、
「柔和な人は幸いである」と言われました。なぜなら、柔和な人は
「地を受け継ぐ」からです。「地」というのは、この世のことで、「地を受け継ぐ」というのは、神がその人にこの世を与えて治めさせるということです。キリスト教というのは、この世のことはどうでもよくて、天国のことだけを考えればいいという教えではありません。この世の成功は何の意味もなく、ただ死んだ後の祝福だけを教えているのではありません。それどころか、イエス様は、「この世を受け継がせる」という物凄いことを言ってらっしゃるのです。では、誰にこの地を相続させるのかと言えば、それは「柔和な人々」になのです。 国語辞典を見ると、「柔和」というのは、「性質や態度が、ものやわらかであること」と書かれています。では、聖書では、「柔和」という言葉をどういう意味で使っているでしょうか。たとえば、この5節にあるイエス様の言葉は、詩篇37編11節からの引用ですが、口語訳では「柔和」と訳されている言葉が、新改訳では「貧しい」、またリビングバイブルの訳では「謙そん」となっています。その詩篇37篇の3-5節を口語訳で見ると、こう書かれています。
「主に信頼して善を行なえ。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげられる」こうしてみると、「柔和」ということが、何であるかが次第に分かってきます。‥‥つまりそれは、「神が必ず良いようにして下さる」と信じて、神に委ねることです。それが「謙遜」ということであり、また「貧しい」、あるいは「柔和」であるということの聖書的な意味なのです。 自分でどうすることもできない貧しい人は、誰かに頼るしかありません。そのように、自分に良いものがないことに気がついた人は、神に頼るのです。聖書で言う「謙遜」とは、すべての望みを神に託す人のことです。そしてイエス様は、そういう人が「地を受け継ぐ」と言ってらっしゃるのです。 民数記12:3を見ると、
「モーセという人は、この地上の誰にもまさって謙遜であった」と書かれています。もちろん、モーセは、最初から「柔和」で「謙遜」な人であった訳ではありません。最初は、同胞イスラエルがエジプト人にこき使われているのを見て、正義感から、そのエジプト人を殺しました。つまり、正義感に燃えて、自分の力で大きな事をしようとしたのです。ところが、それがエジプトの王の知るところとなり、モーセは遠い荒野に逃げて行きました。モーセは、自分の罪を知り、自分の惨めさを知り、失意のどん底に落とされるのです。本当ならここで話は終わりでした。しかし、そのように世捨て人となり、しかも80歳にもなって、もう誰の目から見ても役に立たないと思われたその時に、主はモーセを呼び出されたのです。そして、再びエジプトに遣わして、ついにイスラエルを解放する指導者として用いられたのです。 その時、モーセは、自信のない言葉を並べ立てました。自分には何も出来ないことをモーセは誰よりも知っていたからです。しかし、神はモーセと共にいることを約束し、モーセもこの神だけを頼る人として出エジプトの指導者となったのです。ですから、モーセは、ただ神に頼る人、誰よりも神なしでは何も出来ない人でした。‥‥そういうモーセを指して、聖書は「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜(柔和)であった」と、書き記しているのです。 神は、神無しでも自分で頑張れば何とかなると思っている人に、この世を任せることはなさいません。つまりこの世の成功をお与えになりません。しかし、神を信頼し、神しか頼る方のないことを知って、神に委ねることのできる「柔和な人」に対して、この世においても、また来るべき世においても、その地を受け継ぐ者とさせて下さるのです。
今日の一言: 神だけを信頼しよう平安鶴田健次
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