わたしがそれだ

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「わたしがそれだ」

秋葉正二
詩編110,1-7;

 捕らえられたイエスさまが裁判を受ける記事です。ここに記されているイエスさまの裁判は最初から明確な意図がありました。55節にあるように、イエスさまに敵対する人々、即ち祭司長・長老・律法学者たちの意図は、イエスさまを死刑にすることでした。イエスさまの裁判は、二つに分かれています。その一つがきょうのテキストであるユダヤの宗教指導者による宗教上の裁判であり、もう一つはすぐ後に続く15章のローマ総督による政治上の裁判です。

 宗教裁判は、大祭司を議長として71人から構成される最高法院サンヘドリンによる公式のものですが、最高法院の議場は神殿の中にありますし、神殿の門は夜間閉められていたことが分かっていますから、真夜中に大祭司の屋敷に、しかも過越の祭の夜中に全議員が強引に死刑判決を出すために集まったものかどうか、ハッキリ分かりません。この真夜中の裁判はなにやら非公式裁判の匂いがします。ルカ福音書によりますと、夜が明けるとメンバーが集まった(22,66)と書いてありますから、正式には15章1節にある状況がサンヘドリンの公式裁判開始の時と見た方がよいかもしれません。裁判が二つ行なわれた理由は、ユダヤがローマ帝国の占領下にあったため、ユダヤの宗教裁判には死刑の判決権はありましたが、その執行権がなかったからです。死刑を執行できるのは、ローマ帝国の政治裁判も死刑と認めた場合だけでした。

 そういうわけで、祭司長や律法学者たちは宗教裁判においても死刑の根拠になるような「不利な証言」を見つけ出して、政治裁判においても死刑となるような罪状をつくり出そうとしたのです。55節にある通りです。ちょっと戻りますが、54節にはそれだけをはめこんだように、ペトロの姿が描写されています。これは66節以下の記事への伏線でしょう。ペトロの心情がよく伝わってきます。『遠く離れて』という表現は、彼が怖いながらもイエスさまがどうされるか心配している気持ちが表れています。中庭まで入って、大祭司の下役たちと一緒に座って、火にあたっていたというのは、イエスさまが逮捕されても何もすることができなかった自分を含めた弟子たちの不甲斐なさや、尊敬する先生の身が心配でたまらない、そういう気持ちを抱きながらの行動だったのでしょう。筆頭弟子としての責任も感じていたでしょうし、私はこの時のペトロの気持ちが分るような気がします。ビクビクしながらも、きっと必死だったのです。

 この挿入された一節は66節以下のイエスさまを否認する記事につながっていきます。さて、56節から60節を読み進みますと、祭司長たちが苦労して証人を呼び集めて偽証させたのに、証言が食い違ってしまい、なかなかうまくいかなかった様子が記されています。イエスさまの敵対者にとっては、何が何でもイエスを殺せということだったのでしょうが、何事も焦って行動すれば、どこかにミスを生じるものです。このような一連の流れを見ていると、人間が悪巧みを実行しようとする様子は時代を超えて皆同じだなあ、とつくづく思います。

 しかし、冷静に考えてみますと、祭司長にしても律法学者にしても、ユダヤ社会では悪人どころか人々から尊敬を受けていた人たちなのです。彼らは伝統的にユダヤ教の中にどっぷり浸かっていたので、人類の救い主を殺して神に反逆しようなどとは露ほども思っていなかったでしょう。律法の世界に生きる人間として、むしろ当然のことをしたまで、と考えていたに違いありません。このあたりにも清濁あわせ持つ人間の悲哀をマルコは見ていたかもしれません。サンヘドリンの裁判では、被告の発言を証人たちが直接聞かないと、証人の証言は法的効力を持たなかったそうです。ですから被告が口を開かなければ、せっかく証言がなされても無駄になってしまいます。56節には、『多くの者がイエスに不利な偽証をした』とありますが、どんなに次から次へと証言が続いても、被告のイエスさまの口から反論でも出ない限り、それらの証言は無効になります。

 祭司長たちはイエスさまが何も言わないので焦ったことでしょう。裁判の進行が思惑通りにいかなかったわけです。おまけに証言が食い違いを露呈してしまいました。証言者は色々なことを言っています。58節の証言などは面白いですね。

 『この男が“わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる"と言うのを、私たちは聞きました』と言う証言があったけれども、これも食い違った、とあります。おそらくイエスさまの言葉がそれぞれ不正確に記憶されていたというようなことだったのでしょう。イエスさまは確かに13章冒頭などで神殿崩壊について触れておられますが、イエスさまとしては、エルサレム神殿を霊的に、新しいメシアの共同体として理解されていたのだろうと思います。そういう新しい共同体が生まれることなど、祭司長や律法学者にはまったく想像もできなかったことでしょう。ユダヤ教の指導者たちにとって、神殿ないしは神殿祭儀に批判的な口をはさむことは許せないことでした。実際ユダヤ人がそうした批判をすれば、最長期間の重刑を覚悟しなければなりません。

 もっともイエスさまは、こういう人たちには何を言っても無駄だと思っておられたのかもしれません。やはり沈黙でした。そこで、とうとう大祭司がしびれを切らします。60節。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』それでもイエスさまは沈黙を通されました。このままではラチが明かないので、大祭司は重ねてイエスさまに質問しています。大祭司はイライラして、少し焦っていたはずです。ここは重要な場面です。大祭司の口から出た次の言葉に、イエスさまの本質を示す表現が含まれていたからです。大祭司自身は揶揄するようなつもりで「メシア」という言葉を使ったのでしょうが、ご自身の本質を表す言葉にイエスさまは反応され、初めて口を開かれました。62節。最初にひとことこう言われています。『そうです。』これは有名な言葉です。ギリシャ語で「エゴー、エイミー」。直訳すると「私だ」です。英語で「アイ アム」。口語訳では「わたしが、それだ」と訳され、文語訳では「我が、それなり」となっています。大祭司の『メシアなのか』という言葉に応じられたとするならば、「それ」を補って口語訳や文語訳のように訳すのが私は良いと思います。

 祭司の言葉全体を受け止められたと解するなら、新共同訳のように「そうです」でもよいと思うのですが、「そうです」だけですと日本語としては、エゴー(私)というご自身を意識されている部分がニュアンスとして弱くなるような気がします。ともあれ、イエスさまは初めて重い口を開かれました。そしてこう言われます。『あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。』これは旧約聖書からの引用です(詩編110,1、ダニエル7,13)。天上における神の右への即位と、終わりの日の審判者としての到来、つまり終末への言及と理解していいでしょう。『あなたがたは見るであろう』というのですから、今イエスさまを裁いている者が、やがて終末論的審判者として来るイエスご自身によって裁かれますよ、というのです。またイエスさまが沈黙を続けられたことも、旧約聖書の実現と見ることができます(詩編38,13-15、イザヤ53,7)。

 イエスさまは、旧約聖書を引用しながら、ご自身が救い主キリストであることを言い表されておられたのです。しかし、この重要なイエスさまの自己表明を祭司長たちは、まったく見当違いに理解しました。大祭司に至っては、衣を引き裂いています。これは一種のパフォーマンスです。どうも神を汚す言葉を聞いた際の法的な行動、ということになっていたようです。このへんにもユダヤ教の形骸化を見て取れます。そしてあろうことか、彼らは自分を神の子とする者は神を冒涜するものだから、死刑に相当すると決定してしまいました。

 64節です。サンヘドリンは、大祭司の『諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』という言葉を引き取るように、総意を持ってイエスさまの死刑を決議しました。死刑執行権は持たないけれども、我々エルサレム最高議会は全会一致で死刑を決議した、と強調しているのです。さらにそれに上塗りするように、犯罪人として確定したイエスさまをなぶりものにしました。その様子が65節に描写されています。「ある者は」とあるのはサンヘドリンの議員たちでしょうか。唾をかけたり、目隠しをして殴りつけたりしています。サンヘドリンの議員として選ばれるような立派な人たちでも、ひとたび調子に乗るとこうなります。「悪乗り」という言葉がありますが、人間というのは、その場の雰囲気に乗って調子づき、行き過ぎた行動をすることがよく分かります。

 議員であろうと下役たちであろうと、その場に居あわせた人たちに次から次へと伝染していったのでしょう。見方によっては、イエスさまは十字架につくことさえ簡単にはできなかったのです。苦しみに苦しみを重ねながら十字架への一歩一歩を歩まれました。それは人の罪という重荷を、一つ一つまし加えながら背負わなければならなかったキリストの苦難の足の運びです。私たちはきょうから受難週に入ります。「洗足の木曜日」があり、「受難日」があります。イエスさまの受難の一日一日を噛み締めながら一週間を過ごしたいと思います。受難の苦しみを深く受け止めれば受け止めるほど、復活の喜びは大きくなるでしょう。来週は皆さんと心を合わせてイースターをお祝いしたいと願っています。お祈りします。


 
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