『歎異抄』と福音 第十六回 追善供養の否定

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

先日、親族の死に際し通夜に出席した。駅近くの新しいセレモニーホールの会場は明るくて、葬祭ディレクターの洗練された司会進行に、かつての葬儀屋の雰囲気はない。浄土真宗本願寺派の導師の抑揚をつけた美声の読経は音楽的でさえあった。導師は読経の後、参会者に向き直って、通夜についての短い説教をして退出した。焼香には「それぞれの宗旨に従って行ってください」との説明があった。喪主の挨拶があり、二階には通夜振る舞いの設えがあった。親族同士が無沙汰を詫びる挨拶から昔話に花を咲かせた。長寿を重ねた人の葬儀は、親族の和やかな再会の場であり、最期まで看取った家族への労いの席となった。
どの宗派であっても、仏式葬儀は仏僧による読経で死者を送り出す形式は変わらない。大陸から伝来した仏教に日本人が期待したのは、何よりも呪術力であったという。漠然と死を恐れる日本人の死者儀礼のために、仏僧の読経は用いられてきた。漢訳経典が我々の用いる漢音ではなく、呉音で読まれるために、読経は呪文となる。葬儀において呪文を唱える呪術者としての役割を、こうして今も日本人は仏僧に求めている。
現今の葬儀事情の変容は著しく、葬儀を省いて火葬場に直行する直葬が広がっている。しかし、釜の前で斎場付きの仏僧による簡易な読経だけは行われる。亡き人のために読経すること、それは日本人の死者儀礼の中心にあって、疑いようのないものとして存在する。
親鸞は、この日本の宗教習慣に鋭くメスを入れていた。私は亡き父母の供養のために念仏をしたことなどはない。親鸞はそう喝破したと『歎異抄』は伝えているのだ。その段『歎異抄』第五章を二つに分けて読んでみよう。

◇「親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり。」(第五章)|親鸞は、父母の追善供養のために念仏を唱えたことは、いまだかつてありません。そのわけは、すべての生けるものは、輪廻転生を繰り返す中で父母であり、兄弟であったのだからです。次の世には浄土に生まれ仏となって、あらゆる人をお助けすべきなのです。
この親鸞の言葉の背景には、インドの輪廻転生説がある。これは一種の倫理思想であり、良い行いは良い来世への、悪い行いは悪い来世への転生をもたらすとする。この思想が仏教に取り入れられて、六道輪廻説となる。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天という六種の生存状態である。地獄は最も苦しみの多い世界、餓鬼は飢え渇きの生存苦の世界、畜生は弱肉強食の動物の世界、阿修羅は闘争の止まない世界、人は人間の世界、天は楽しみ多い世界。行いの結果によって生まれ変わりを際限なく繰り返すのであり、天でさえも終局の到達点ではない。
親鸞が言うのは、すべてのものはどこかで自分の父母であっただろうということだ。だから今、自分の父母だけの追善供養を行うのはおかしいと論じている。すべての生けるものへの慈悲を求める仏教本来の態度だろう。しかし、親への孝行、それも亡くなった親への追善供養こそ第一義とする儒教の影響化にある日本では、仏教は現代もなお、親への追善供養の宗教となって生きている。
◇「わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して父母をたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれも業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々。」(第十三章)|もしも念仏が我が力によって励む善行であるならば、その念仏の功徳を振り向けて亡き父母を助けることもできましょう。ここはただ自力を捨てて、すみやかに浄土に生まれ仏となって、輪廻転生のいかなる苦しみにある者も、仏が持つ力によって縁のある者から覚りに至らせるべきなのです、と。
「四生」とは、生まれ方で生き物を四つに分ける分類で、母胎からの胎生、卵からの卵生、湿気から生まれるとする湿生、過去の行いによって生まれるとする化生の四種だ。どんな生まれ方をし、どんな苦しみの世界にある生き物をも、念仏をして浄土に生まれて仏になれば助けることができると訴えている。あらゆるものへの慈悲を志す普遍的な宗教に、親鸞は生きようとしていた。最初に述べたように、親鸞を継ぐ本願寺派の僧侶も、家族の冥福を祈りたい日本人の求めに応えなければ、生業は成り立たないだろう。
「わたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マタイ12・50)とイエスは言われた。我が家族さえ幸福であればとのエゴイズムを超えることは、ことほどさように困難なものである。

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