東京フリー・メソジスト教団 桜ヶ丘教会 協力牧師 野田 秀
聖書の読み方
年頭に当たり、今年こそ聖書を読もうと決心し、それを楽しみにしている方々も多いことでしょう。聖書を読むということは、「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます」(詩篇119・14)ということばのように、あらゆることに勝って幸いなことなのですから。
ただ、現実には聖書を読むことは必ずしも容易ではなく、中途半端に終わりかねないところがあります。「聖書は神さまからのラブレター」などと言われても、いざ読んでみて大量虐殺の記録などが次々に出てくると頭をかしげたくなります。人名がずらりと並んでいる箇所を読むのもなかなか大変です。なぜこれが神のことばなのかと疑問を感じることがきっとあると思います。それは、まじめに聖書を読もうとする人なら、誰しも一度は通過する一つの関門のようなものです。
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ところで、聖書に読み方があるでしょうか。デボーションは朝がよいとか、参考にする本は何がよいかといったことは、生活や好みの違いもあるのでおくとして、聖書そのものを読むことについて、一般の読み物を読むことを例に説明してみましょう。
第一のたとえは小説やマンガです。
好きな小説やマンガに読み方はあるでしょうか。ないと思います。最初のぺージから最後の一行まで、それが好きな作家のものであればなおのこと、人は、われを忘れて読むことでしょう。途中を飛ばすことなど考えられません。
いつか新聞に男子高校生の投書が載りました。夏休みに世界の文学作品を一冊読めという宿題が出たので、少し難しいかなと思ったのですが、アメリカの作家メルヴィルの『白鯨』に挑戦したのです。そして文庫本で上下二巻を読み終えました。しかし、「やった」と思ったのもつかの間、すぐに分かったことは“中巻”があったということでした。難しいので“中間”を飛ばしても分からなかったのです。ちょっと愉快な話ですね。
けれども考えてみると、私たちが聖書の全体を読むということは、これに近いものがあるかもしれません。私もずいぶん途中を飛ばして読んでいました。私にとって今でも預言書は苦手なところです。けれども、次第に、神の救いの全貌をとらえるためには、読み飛ばしてはならないことに気がつくようになりました。
第二のたとえは新聞です。新聞に読み方はあるでしょうか。これもないと思います。
ただ、こうでなければならないという読み方はないとしても、その人その人の読み方、つまり、毎日の新聞をどこから読むかという習慣のようなものはあるはずです。社会面をまず開くとか、私はスポーツ欄だというように、その人の関心事によってそれぞれの読み方というものがあります(ちなみに私は投書欄をよく開きます)。
これを聖書に当てはめれば、自分の読みやすい箇所を、好んであるいは選んで読む読み方に似ているでしょう。それは詩篇かもしれません。福音書、あるいはパウロの手紙ということもあるでしょう。聖書の中にそういうところを持つことは幸いであり、その本を自分の信仰の支えにすることは、とても大事なことであると思います。
聖書の読み方について二つ考えてみましたが、前者はいわゆる“通読”に当たります。聖書の通読には忍耐と工夫が必要ですが、課題は、主を、好きな作家のように受け止められるかということにかかっているのではないでしょうか。そして後者は、自分にとって比較的読みやすく興味のあるところを読む読み方です。それは深く理解するという意味で、大切な読み方であることに違いはありません。聖書の中で「私は○○が好きだ」という本は誰にでもあるものです。
聖書から真理をつかむ
聖書の読み方も大切ですが、どんな読み方にせよ、大事なことはそこから真理をつかむことです。聖書を読むことによって、私たちは神に聴き、神といっしょに考え、神に対する信頼を増すのです。聖書には理解に苦しむところもないわけではありません。しかし、小さな発見でもよいのです。その向こうに隠された、昔も今も変わらないメッセージをとらえることを目指しましょう。
二○一七年はルターによる宗教改革五百年記念の年です。彼は、大学で聖書を教えるために詩篇やローマ人への手紙を読みました。その結果、プロテスタント教会の信仰の根幹をなす「信仰による救い」を確信したのです。ところが、そのルターが、実は地動説を信じていなかったことをご存じでしょうか。彼は、地動説を唱えたコペルニクスを批判したそうです。従って、ルターは聖書の真理を発見し、それを主張しましたが、科学的には誤っていたことになります。
同様のことが、詩篇の記者ダビデにも言えます。彼が「太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る」(詩篇19・5)と歌ったとき、それは太陽が動いていると思ってのことでした。彼も科学的には間違っていたのですが、神に選ばれて霊的真理を明らかにした人だったのです。私たちは、地球が動いていることを知らなかった人々がとらえた真理を信仰の基礎に置いているのですから、考えてみると、それは不思議なことであると言わざるを得ません。
私たちは彼らと違って科学の進歩の著しい時代に生きています。IT(情報技術)、AI(人工知能)といったことばが飛び交っています。けれども、そのことが科学への過信を生み、私たちが聖書を読むことにおいても、その物差しで読むようにさせているかもしれません。そして、そういう姿勢は、聖書から真理を読み取ることを妨げはしないでしょうか。聖書の前に座るとき、私たちは“科学的”という物差しを横に置き、ひととき、昔の人と何も変わらないひとりの人間として神に聴こうとすることによって、初めて真理を理解することができるのです。聖書を読むとはそういうことなのです。
イエスさまのサイン
いろいろな聖書の読み方があるとしても、一番幸いな聖書の読み方、それはイエスさまとともに読むことです。主が、「ああ、そこはこういうことだよ」とか、「その箇所は難いところだよね。助けてあげるから少し考えてごらん」と言われるのを聴くようなつもりで読むのです。そうすることによって理解が増し、新しい発見があり、ますます興味が加えられるに違いありません。
さて、好きな作家にその著書にサインをしてもらうように、今年は、あなたの聖書にイエスさまのサインをもらってください。何といっても、神の愛を知り、イエスさまを好きになることが、聖書を理解する一番の秘訣なのですから。
特集 聖書を読むということ 呼吸法と黙想
特集 聖書を読むということ 全生活をディボーションに
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