野の花、空の鳥

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

野の花、空の鳥

 今日の音楽礼拝のテーマは収穫感謝である。しかし、この主題は、大都会で生きる私たちには実感が薄いかもしれない。お百姓さんのように土を耕し・種を蒔き・天候に一喜一憂しながら収穫を待つ、というような暮らしとは通常は無縁だからだ。せいぜいスーパーに買い物に行って新米が出たと言っては喜び、新鮮な旬の野菜を見つけては上機嫌になるくらいだ。松茸を見るのも嬉しいが、今年は北朝鮮からの輸入が禁止されたために高値だという。尤も、いつもの年でも滅多には買えないが。梨・林檎・ぶどう・柿・栗などの果物も、今、美しい。自然に感謝の心が湧いてくる。

人類が森の木の実を集め・狩猟をして生活していた頃から、収穫感謝はどこでも行われていた秋の重要な儀式であった。アイヌの人々は、この習慣を今に伝えている。もう少し時代が経って農耕や牧畜が主流になってからは、この週間は一層重んじられるようになった。ユダヤでは、チスリの月の15日(現行暦では秋分後の最初の満月の日)から7日間にわたって仮庵祭が祝われたし、イギリスには古来 "loafs-mass"(パンのミサ)、あるいは "lamb-mass"(羊のミサ)と呼ばれるものがあったという。収穫を神の恵みとして感謝するのは人類の素朴な心情であり、普遍的な現象でもある。

ドイツでは10月第1日曜日が "Erntedankfest"だが、もっと広く知られているのは、アメリカの "Thanksgivingday"であろう。1621年、清教徒(ピューリタン)たちがアメリカ新大陸に移住して来てから迎えた最初の秋に、その年の収穫を神に感謝したのが始まりだった。だから、米国では、その11月第4木曜日は国の祝日である。

興味深いことに、その日、ピューリタンたちは単に神に感謝しただけではない。その土地に適した農法を教えてくれた先住民に対しても、彼らは心からの感謝を表わしたと伝えられる。ワンパノアグ族の族長マサソイトとその配下90人を招いて、野生の七面鳥を丸焼きにしてもてなしたのだ。このことは、収穫感謝の重要な側面を私たちに教えてくれる。つまり、他者と共に神の恵みに与るということである。

収穫感謝とは、天地万物が共に生きて行くために造られた神の被造物であるという真理を想起することに他ならない。創世記によると、神は多種多様な穀物や野菜、果樹などを創造し、それらを食物として人間や他の動物に与えたが、それは人間がそれらの物を自分勝手に、無慈悲に収奪するためではなく、慈しんで育て、その実りを感謝して受けるためである。主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた(創世記2章15節)。このように、この世界の園守りとして、共に造られた被造物を守って生るのが人間の責任なのである。

アッシジのフランチェスコ(1181~1225)は、死の数ヶ月前、内心からほとばしり出る思いを太陽の賛歌に歌った。それは、神が天地万物を共に生きるために造られたことを賛美する歌である(讃美歌223番参照)。断片的だが、それを引用しよう。

主をほめたたえよ、すべての被造物と共に / わけても特にと共に / 朝が来る、主こそはまことの光の源 / 太陽こそは主のしるし。 / 主をほめたたえよ、、のため / のため / のため、のため、澄んだ、また、すべてののため。 / 主をほめたたえよ、のため / のため / のため、われらを支え、育み、さまざまな実りを産み出す大地を / 色とりどりのも・・・。

これこそ、収穫感謝の意味なのだ。自分のことだけを思い、自分中心の狭い心から収穫を喜ぶのではない。エゴイズムほど、収穫感謝に相応しくないものはない。収穫感謝とは、神が天地の万物を共に生きるために造られたことを感謝してほめたたえることである。その中には、共に生きることを許された人間仲間も入る。だから、フランチェスコはこう続ける。主をほめたたえよ、のため / のため / のために。

そして最後は、主をほめたたえよ、のためにという言葉でこの賛歌を結び、間近かに迫った死をも、感謝して受け入れたのであった。

ここで、今日のテキストであるに眼を向けたい。この箇所の重点が思い悩むなというところにあることは、最初の言葉(25節)からも明らかだ。同じ言葉は31節にも繰り返され、そして最後は、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である(34節)と結ばれる。これは真理に違いない。

だが、私は今日、イエスが空の鳥をよく見なさい・・・(26節)と言い、また、野の花がどのように育つのか、注意して見なさい・・・(28節)と言われたことに特に注目したい。イエスは尊大な権力者に対しては厳しい批判の眼を向けられたが、抑圧された人々や病人、障碍を持つ人々、子どもたちなど、この世で最も小さい人々には優しい目を注がれた。そしてその眼差しは、人間に限らず、周囲に慎ましく生きている小鳥や、道端の名もない花にも注がれた。福音書の中で、イエスはしばしば動物や植物に言及するが、その時の彼の眼差しはあくまでも優しく、そして注意深い。

注意して見なさいの原語(katamanthanein)は、よく観察するとか注意深く考える徹底的に学ぶという意味である。空の小鳥や野の花といった自然界の中で最も小さい存在をも、私たちはよく観察し、その観察に基づいて注意深く考え、そこから徹底的に学ばなければならない。イエスは、こう命じているが、収穫感謝はそこまで視野を拡大して祝うべきことなのである。

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