「平和をつくる者」(JETS全国研究会議開会礼拝説教2024.11.18)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

ただ今より、日本福音主義神学会、第17回全国研究会議を始めます。

この度は完全オンラインでの開催となりましたが、このようにたくさんの方々が日本中から、また海外からも参加してくださっていることを感謝します。私は東部部会の理事長、また今回の全国研究会議の実行委員長を務めております、山﨑ランサム和彦と申します。福音主義神学会を代表して、皆さまを心より歓迎申し上げます。

福音主義神学会は三年に一度全国研究会議を開催しておりますが、今回の全体テーマを「平和」とさせていただきました。これから三日間、ともに平和について考え、対話をしていきたいと願っていますが、はじめに開会礼拝として、聖書を開かせていただきたいと思います。

「平和をつくる者は幸いです。
 その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
           (マタイの福音書5章9節)

今回の全国研究会議の全体テーマを「平和」としたのですが、実は私の属している東部部会では昨年から継続して平和の問題に取り組んできました。その背景にはもちろん、長期化するロシア・ウクライナ戦争、パレスチナ・イスラエル戦争があります。みなさんもメディアやSNSなどで、平和について語られるのを何度も見聞きしていることでしょう。

その一方で、あまりにも「平和」という言葉が氾濫しているのに少々疲れを覚えている方もおられるかもしれません。自然災害などでも同じことが言えますが、人間というものは、どんなに大切な事柄であっても、常にそれが語られ続けると、感覚が麻痺してきて、しまいには慣れっこになって何も感じなくなってしまうものだと思います。また「平和」という言葉が、掛け声だけで中身のない空虚なものになっていく、それどころか戦争を正当化する方便として使われる恐れさえあります。

ところで、アイルランド出身の世界的に有名なU2というロックバンドがあります。ヴォーカルのボノはクリスチャンであることを公言していて、彼が書く歌詞にもクリスチャン的な表現がたくさん出てきます。U2の歌の中に「ピース・オン・アース」という曲があります。「地には平和を」という意味のタイトルですが、これはおそらくクリスマスの讃美歌「あめにはさかえ」に基づくもので、さらにもとを辿ればルカの福音書2・14で主イエスがお生まれになった夜に天の軍勢が歌った、グロリアとして知られている讃歌の中の、

「地の上で、平和が
 みこころにかなう人々にあるように。」

という箇所から取られています。

これは文字通り平和を願う内容の歌なのですが、その歌詞はストレートではありません。その中でボノが次のように歌う部分があります。「地上に平和がやってくると何度も何度も聞かされるのはもううんざりだ。」もちろん、彼が平和を願っていないということではありません。これは人々が平和を叫び続けているのに、それが一向に実現しない現実に対する強い苛立ちを表している言葉です。私たちも、どんなに平和を願い続け、唱え続けても、いつまでたっても平和が訪れない現状に絶望したくなることもあります。このような時こそ、私たちは聖書のことばに耳を傾けていきたいと思います。

先ほどお読みしたマタイ5・9は主イエス・キリストがなされた山上の説教、その冒頭に置かれた有名な「八福の教え」の一つです。この八福の教えは、ひとことで言うと神の国についての教えです。でもこれは、「神の国に入るにはこうしなければならない」という道徳のルールではありません。そうではなくて、神の国が到来しているところでは、人々はこのように生きるのだ、と教えているのだと思います。神の国とは、神の聖なる御心が地上に実現している領域です。そのような、主イエスが始められた新しいリアリティに生きる人々は、今は神の御心が完全になっていないようなこの世界にあって、神の国を先取りして生きるのです。

9節をもう一度お読みします。
「平和をつくる者は幸いです。
 その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

「幸い」(マカリオイ)は一般的な幸福を言っているのではなく、イエス・キリストが告げ知らせた神の国に入れられた人の深い内面的な喜びを表します。「至福」と訳しても良いかもしれません。

「平和をつくる者」と訳されているギリシア語エイレーノポイオイは新約聖書にはこの箇所にしか出てこない言葉です。ここで主イエスが「平和を保つ者」とは言わず、「平和をつくる者」と言われていることに注意したいと思います。平和は何もしなくても最初から与えられているものではなく、むしろ人が積極的に作り出していくものなのです。ですからここで言われているのは、ただ争いや対立を避けるという、受け身の事なかれ主義ではありません。

この言葉の動詞形エイレーノポイエオーがコロサイ1・20に出てきます。そこではイエスが「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」と書かれています。主イエスがなさった平和づくり、それはすべてのものを神と和解させることでしたが、そのことは主が人となり、神の国の福音を宣べ伝え、十字架の死に至るまで御父に従われるという、積極的な働きによるものでした。また同じ動詞が箴言10・10の七十人訳に出てきますが、そこでは、「大胆に叱責する者は平和をつくる」と書かれています。

つまり、主イエスが言われた「平和づくり」とは平和のない世界に積極的に働きかけて和解をもたらす行為と言えます。山上の説教の後の方では、この主題が「敵を愛しなさい」という形で具体的に展開されていきます(5・43―48)。

ところで、そもそも「平和」とは何でしょうか。聖書における「平和」(ヘブル語でシャローム)は、単に争いや対立がない状態を指すだけでなく、神からの祝福によって与えられる完全性、健康、安全、繁栄、幸福等を包む幅広い概念です。それは「救い」と言い換えても良いかもしれません。しかもそれは個人の救いや個々の人間関係にとどまらず、社会全体、そして最終的には被造物全体の回復にもつながっていくものなのです。 

平和は紀元一世紀のローマ帝国においても重要な概念でした。イエスがお生まれになる少し前にローマでは内戦が終わり、帝政時代が始まりました。初代皇帝アウグストゥスは、世界に平和をもたらした救い主として称賛されていました。有名な「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」という概念は、ローマ帝国がいかに素晴らしいものであるかを宣伝するプロパガンダだったのです。

実際、平和づくりは皇帝がする仕事とされていました。ローマ皇帝も「平和をつくる者」と呼ばれました。なぜならローマの平和は権力による平和だったからです。強大な軍事力を背景に、あらゆる反抗を押さえつけるなら、世界に戦いはなくなります。でもそれは表面的な、偽りの平和だったのです。使徒24・2でパウロを訴えたユダヤ人弁護士テルティロはローマ総督フェリクスに対して、「フェリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を享受しております。」と歯の浮くようなお世辞を言います。キリスト教が生まれた当時のローマ帝国は、ローマによってすでに平和が実現された素晴らしい黄金時代だ、と人々が言っていた、あるいは権力によって言わされていた、そんな時代だったのです。

すでに平和があるところで平和をつくる必要はありません。けれども、主イエスははっきりと「平和づくり」について語られました。なぜなら、主がご覧になった世界は、真の平和とは程遠い世界だったからです。

しかもイエスが「平和をつくる者は幸いです」と呼びかけたのは、皇帝や貴族たちではなく、貧しい一般の人々でした。本当の平和は、そのようなごく普通の人々から始まっていくのです。ローマ皇帝が権力によって作り出す平和を「上からの平和」と呼ぶとしたら、イエスが考えておられるのは「下からの平和」と言えるでしょう。それはごく普通の人々が周囲の人々と平和な関係を築いていくことから始まるものなのです。

そして、そのように「平和をつくる者」は「神の子ども」と呼ばれるようになると主は言われます。偽りの平和をつくったローマ皇帝たちも「神の子」と呼ばれました。けれどもまことの神の子であるイエス・キリストは真の平和をつくられました。エペソ2・14―17に次のように書かれている通りです。

「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。」

このイエスに従う私たちも神の子と呼ばれるようになるのです。

マタイ5・9に戻ります。新改訳聖書の表現は少し紛らわしいですが「その人たち」とあることから分かるように、本節で「平和をつくる者」、「神の子ども」と訳されている言葉はどちらも原文では複数形です。これはただ単に父なる神と個人的な関係を築くことができるというだけでなく、私たち教会が集合的に「神の子どもたち」になる、ということを語っていると思います。旧約聖書のイスラエルは「神の子ら」と呼ばれました(ホセア1・10)。新約聖書でも教会は「神の子どもたち」と呼ばれています(ロマ9・26、ガラ3・26)。要するに、平和をつくる者たちは、ほんとうの意味での神の民になる、ということです。それは、歴史を貫く神のご計画の中で、この世界を愛と喜びに満ちた聖なる世界に回復しようとなさる神の働きのパートナーになる、ということです。それは個人を変え、社会を変え、最終的にはこの世界全体を変えていきます。パウロはローマ8・19―21で次のように語ります。

「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。」

最初にお話したように、これは単なる道徳の教えではありません。「努力して平和を作りなさい。そうすれば神の子どもになれます」という話ではありません。もちろん、私たちの側で何の努力もいらないということではありません。山上の説教の後の方では、主イエスは命令形を用いて「敵を愛しなさい」等と教えておられます。けれども八福の教えはそうではありません。それは神の国が顕れる時にはこのようになるのだ、という宣言なのです。ですからN・T・ライトはこの箇所を次のように訳しました。「平和をつくる者たちには良い知らせがあります! あなたがたは神の子どもたちと呼ばれるようになるのです。」これは福音の言葉なのです。

私たちはもちろん平和をつくるために努力するべきです。けれどもそれは、イエス・キリストによってもたらされた神の国の到来という終末的な現実によって初めて可能になることです。つまり、神の国を体験し、聖霊によって作り変えられた人々は、気がつくと「平和をつくる者」になっている、そのように生きたいと願うようになるということなのだと思います。

最初にご紹介したU2の「ピース・オン・アース」は、まるで2024年の世界の現状を表しているような曲ですが、実はこの曲が作られたのは今から四半世紀も前のことです。これは1998年に北アイルランドで起こったオマー爆弾テロ事件を受けて作られた曲でした。この曲は後にアメリカの9・11同時多発テロ事件の後にも盛んに歌われ、最近ではパレスチナ・イスラエル戦争を受けて、バンドのライブ公演で歌われています。

この曲の中でボノはイエスに助けを求めて訴えています。いやむしろ、抗議していると言っても良いかもしれません。

「イエスよ、あなたが書かれた歌の中にある、『地には平和を』という歌詞が喉につかえて出てきません。毎年クリスマスには『地には平和』と聞くけれど、希望と歴史は韻を踏みません。そんな言葉に何の価値があるのでしょうか。」

それでも彼は最後に祈るように「地には平和を 地には平和を」と繰り返して歌が終わります。

ある人々は、この歌には希望がない、あまりに否定的だと言います。でも本当に絶望していたら、なぜボノはこの歌を四半世紀も歌い続けているのでしょうか。もし本当に希望がなかったら、平和について歌うことすらやめてしまうと思います。私には、この歌にはイスラエルの民が絶望の中で、それでも神に希望を託して「主よ、いつまでですか」と祈った祈りと通じるものが感じられるのです。それは現実を無視した無責任な楽観主義ではありません。私はこの歌は深い信仰に基づいていると思います。

私たちも「地には平和を」と歌い続けなければなりません。どんなに時代が悪くても、何も変わらないように見えたとしても、平和を求め続けていかなければなりません。なぜでしょうか? それは、平和をつくる者であることは、平和の君であるイエス・キリストを主として従う神の民の本質的な召しだからです。平和はきれい事の虚しいスローガンではありません。私たちは平和のない厳しい現実を直視しながら、そのただ中に働く神の力に信頼して、教会外の方々も含め、他の人々と協力しながら平和をつくり出していくように招かれているのだと思います。平和の神学を構築することも、そのような営みの一つであると思います。

今日からの三日間の研究会議で、私たちは平和について話し合います。教会において、社会において、そして被造物世界において、どのようにして平和をつくっていくのか。世界の現実をしっかりと見据えながら、聖書のことばに深く聴き、対話を行いたいと思います。もちろん、これからの各セッションを通して明らかになるように、「平和」とは巨大で複雑な問題であり、各キリスト者の取り組み方も多様であるかもしれません。だからこそ、お互いの意見に謙遜に耳を傾け合い、共に手を携えてキリストにある平和づくりのために協力する者になりたいと思います。

日本において私たちキリスト教会は少数派です。社会的な影響力はほとんどないかもしれません。でもそんな小さな私たちをも用いて、主イエスが「下からの平和」をつくり出してくださることを願いながら、祈り心を持って三日間を共に過ごしたいと思います。そして何よりも、まずはこの会議の中に、神の国の平和が豊かに顕されることを願ってやみません。お祈りをいたします。

平和の神よ、あなたは御子イエスを通して、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」とおっしゃいました。この世界には平和とはほど遠い現実があります。私たちはそれを知っていますし、だれよりもあなたご自身がそのことをよくご存知です。でも、そのただ中にあなたはご自分の御国を来たらせ、私たちを、平和をつくる者にしてくださることを信じます。この研究会議を通して、私たち一人ひとりが平和づくりに召された神の民にふさわしい者に変えられていきますよう、三日間のプログラムを祝福してください。平和の君である主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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Emmanuel

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