「神が聞いて下さる」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

旧約聖書は、社会的弱者の代表として、しばしば寄留の外国人・孤児・寡婦を挙げている。先ほど読んだエレミヤ書 22,1-5は、預言者エレミヤがユダの王に対して極めて率直に、歯に衣着せずに語った言葉で、「これら立場の弱い人々を虐げるようなことをしてはならない」と厳しく戒めたものだ。旧約には、読むに耐えない残虐な個所もあるが、それはいわば「陰の部分」であり、この「寄留の外国人・孤児・寡婦を苦しめ、虐げてはならない」という預言者の戒めは「光の部分」、あるいは中心である。我々は「陰の部分」に余りに引きずられてはならない。この「光」が全体を照らすような読み方をしなければならない。

ところで、今日のルカ福音書の記事にも「やもめ」が登場する。これは、最も弱い立場にある寡婦が不当な扱いを受けているという社会の現実にイエスが敏感であったことを示すものだ。同時に彼は、こういうことはあってはならないという預言者の精神を代弁している。これが、この物語の枠組みである。

さて、このやもめは、多分、夫から遺産として相続した土地を騙し取られたか、何かされたのだろう。裁判官の所に行って訴えるのだが、一向に取り合ってくれない。権力を持っていて、その気になればすぐにでも「一件落着」させることが出来る立場にいる人が、生返事をするばかりで全く動き出そうとしない。これは苛立たしいことである。

先週報道された栃木県警の事件を思い起こす人も多いであろう。――ある若者を中学の頃の同級生が三人で無理やり監禁して金を奪い、熱湯を注ぐなど散々暴行を加えた末に、殺して山林に埋める。両親は、息子が失踪してから何度も警察に足を運んで捜索を依頼するのだが、一向に取り合って貰えない。その内に、最悪の痛ましい結果に至った、という実におぞましい事件である。主犯格の少年は、無期刑を宣告された。

しかし、今日の譬え話は、それ程陰惨な話ではない。

この裁判官は確かに悪い。昔、「悪代官」というのがいたが、それに当たるだろう。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」(4b)と自分で言うのだから、これほど確かなことはないが、もしかしたら、自分でこんなことを言うのは、「悪党としてはまだすご味が足りない」のかも知れない。本当のワルは、親切そうな顔をして冷酷無残なことをするものだ。この裁判官には、「神など畏れず、人を人とも思わない」と公言している割にはどことなく人の好い、間の抜けた所があって、徹底的に冷酷にはなれない。

彼は「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」(5)とこぼした、というが、ここにはそこはかとないユーモアがある。

「さんざんな目に遭わす」というギリシャ語は、直訳すると、「目の周りにくまを作る」という意味だ。「夜討ち朝駆け」、しつこく何度でもやって来て、こっちはおちおち眠る暇もない。目の下にくまが出来る始末である。もう堪らん! 仕方がない、彼女の言い分を聞いてやるとするか。

言うまでもなく、これは一つの利己的な計算から出てきた結論で、「裁判官としての正義感」とか、「人類愛」などという高尚な動機とは全く無縁な「打算」である。しかし、そうであったとしても、とにかくこの寡婦の願いは聞き届けられた。これが肝心な点である。

不正な裁判官でも遂には寡婦の願いを聞いたという、何処にでもありそうな話を手がかりにして、イエスは、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか」(7)と言う。

この世界には不正が充満しているけれども、それにもかかわらず、「一生懸命に叫び求めれば聞かれる」という構造がある。不正な裁判官にも、普段は身勝手で利己的な庶民にも、そういうところがある。

ルカ 11,5-8に、真夜中に友だちに叩き起こされて「パンを貸してくれ」と頼まれ、「うるさい!せっかく眠っている所を邪魔するな」とむかっ腹を立てる人の話がある。イエスは、「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(8)と言い、「求めよ、さらば与えられん」という勧めにつなげる。

一生懸命に頼めば、いくら不親切な人でも、「しょうがねえ、聞いてやるか」と態度を変えることがある。むろん、いつでもそうだとは限らない。しかし、変わり得る。この人の世は、「絶対に動かしようがない」ものとしてではなく、「動き得る」ものとして造られている。神は人の世をそのようにお造りになった。これがイエスの深い洞察だった。だから、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(18,1)。

 

では、何を叫び求めるのか。何を祈るのか。

「神の真実の支配がこの世界に来ますように」ということである。

近く総選挙が行われる。正直な所、我々は余り希望を持てないでいるが、やはり祈らねばならない。一人でもいい。この世界の将来のために正しい考えを持ち、それを真実に実行するような政治家が選ばれるように。

「みんなも呼びな あんなに(赤ん坊のように)しつこく呼びな」(八木重吉)。



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