主イエスが復活されてから50日目、エルサレムに集まっていた弟子たちの中に不思議な現象が起こって、この日以来、彼らは実に生き生きと活動を始めた。使徒言行録2章1節以下によれば、このような次第であった…。
ところで、イエス生前の弟子たちは、師の後からたどたどしく従って行った。彼らは師を正しく理解していたとは言えず、よく叱られた。最後の頃、最も信頼されて「ゲッセマネの園」まで同行を求められたペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、師が苦しみながら祈っていたあの重要な瞬間に、眠りこけていた。もう一人の弟子ユダは、師を裏切って銀30枚で売り、愛と友情の徴である接吻を合図に、彼を殺そうとしている勢力の手に引き渡した。宗教裁判の場では、弟子たちの中心であったペトロが、三度も繰り返して「あの人のことは知らない」とシラを切った。他の弟子たちはいち早く師を見捨てて逃げ去り、十字架の場面では、少数の女の弟子たち以外は誰一人残らないという有り様だった。
イエスが殺された時、弟子たちはこのような惨めな状況にあったのであり、この事実は彼らに非常な挫折感を残したであろう。単に師を失ったというだけではない。彼らは自分を見失っていたのである。
その弟子たちが変わった!
一言で言うと、彼らは自らを新しく発見し、しかも「自主的に」行動し始めた。かつては、イエスに従って生きようとしても、理解不足と弱さが災いして、だらしのない状態に留まっていた彼らが、今や自分自身を見出し、自主的に判断し、語り、行動するように変えられた。語る言葉にも行う業にも、人を動かす力があった。
ペンテコステの日に起こったのは、弟子たちの一人一人が自分自身を発見し、自主的な人間になるという出来事だった。彼らの集団もまた、頼りない「烏合の衆」であることを止めて、確かな主体性を持つ集団に再生した。
ところで今、我々の周りでは、「自分自身」が問題になっている。自分は一体何者か。何のために生まれて来たのか。どこへ向かって生きていけばいいのか。現代人は一般に、この意味で自己を見失っている。これは、特に日本人に著しい。
戦前の日本人は、「天皇を中心とする神の国」という考え方の中に身を置いていれば、それで自分が分かったような気になっていた。私自身も、大多数の日本人が言っていたように、「この悠久の大義のために自分は生まれ、そして死んでいくのだ」と息巻いたものだ。しかし、この思想は惨澹たる結果を伴って完全に破綻した。
戦後の日本人は、これに代わる価値観を中々見出すことができず、「真空状態」の中にいた。その内に、多くの人は「経済活動」とか「お金儲け」にそれを見出したが、この人生観は底が浅いということは誰にも分かるから、到底それに満足することが出来ない。だから、今なお混迷の中にある。そこに、「天皇を中心とする神の国」という、一度は完全に破綻した思想を口にする政治家が出てくる理由がある。
我々にとって、「自らを新しく発見すること」、また「周囲に流されずに自主的に生きること」は、いつの時代でも、心からの願いである。
正にそのことがペンテコステの日に起こった、という。我々は、大きな関心を持たざるを得ない。そして、一体このようなことがどうして起こり得たのか、と問う。
使徒言行録は、「聖霊が降った」からだと言い、使徒パウロは今日の個所で、「神からの霊を受けた」(12)と説明する。
「聖霊」とか「神の霊」というのは何か。
聖書がそう言う時、それは「生命の力」を意味する。天地創造の初め、「神の霊が動いていた」(創世記1,2)と言われるのがそれであり、人間が創造された時、神の「命の息」(2,7)が吹き入れられたとあるのも、それである。「聖霊」とか「神の霊」というのは、神から与えられる命に他ならない。先程朗読したイザヤ書が言うのもこのことだ。
我々の命は、初めから確かなものとして我々の中にあるものではない。我々は、経験からそのことを知っているではないか。小さなことでもすぐへこたれる。ああ、もう駄目だ。何度我々はそう感じたことだろう。そういう時、「生ける屍」という言葉があるように、本当に命が抜けていくような感じがする。
逆に、誰かが深い慰めを与えてくれた時、あるいは聖書の真実な言葉に触れた時、「息を吹き返したような」感じがする。我々の命は、外から来る。日々、瞬間瞬間、神が命の息を吹き入れて下さるから、我々は生きている。
ある神学者はこのことを、「我々の内に働く神ご自身」と言った。神は、いと高き天に、つまり、我々を高く超越して存在しているだけではない。イエスという一人の人間の形を取って、困難に満ちた地上の歴史を我々と共に生きる方でもある。だが、それだけでもない。我々一人一人の心の中に入り、心の目を開く。単に認識上のインスピレーションだけではなく、我々の命がどこから来るか、深い知恵と洞察を与える。そして我々を内側から動かし、隣人と共に生きるように、憎み合い・殺し合うのではなく、愛し合って共に生きるように導く。これが聖霊なのである。
造り主なる御霊よ、来りませ!
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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